・・・――僕は実際無常を感じてしまったね。あれでも君、元は志村の岡惚れだったんじゃないか。 志村の大将、その時分は大真面目で、青木堂へ行っちゃペパミントの小さな罎を買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・彼は、ゴルゴタへひかれて行くクリストが、彼の家の戸口に立止って、暫く息を入れようとした時、無情にも罵詈を浴せかけた上で、散々打擲を加えさえした。その時負うたのが、「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜った後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか? 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。なおこの間の消息を疑うものはマソヒズムの場合を・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を献じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山六年の苦行よりも、これが遥かに大事だったのじゃ。『取彼乳糜如意飽食、悉皆浄尽。』――仏本行経七巻の中にも、あれほど難有い所は沢山あるまい。――『爾時菩薩食糜已訖従・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・彼はまず何を措いても、当時の空想を再びする無上の快楽を捉えなければならぬ。―― 硝煙は見る見る山をなし、敵の砲弾は雨のように彼等のまわりへ爆発した。保吉はその中を一文字に敵の大将へ飛びかかった。敵の大将は身を躱すと、一散に陣地へ逃げこも・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠につぶやき始めた。小雨・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・二の烏 恋も風、無常も風、情も露、生命も露、別るるも薄、招くも薄、泣くも虫、歌うも虫、跡は野原だ、勝手になれ。(怪しき声にて呪す。一と三の烏、同時に跪いて天を拝す。風一陣、灯はじめ、月なし、この時薄月出づ。舞台明くなりて、貴・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ 手の裏かえす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかかる氷のような練絹の、紫玉のふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、「立たねえかい。」 十三「口惜しい!」 紫玉は舷に縋って身を震わす・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ そんな事は出来ない。いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。 それですからこれから牽くのですが。 それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。 無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・線香を立てて死人扱いをするのがかあいそうでならないけれど、線香を立てないのも無情のように思われて、線香は立てた。それでも燈明を上げたらという親戚の助言は聞かなかった。まだこの世の人でないとはどうしても思われないから、燈明を上げるだけは今夜の・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫