・・・すると婆はまた薄眼になって、厚い唇をもぐもぐ動かしながら、「なれどもの、男に身を果された女はどうじゃ。まいてよ、女に身を果された男はの、泣こうてや。吼えようてや。」と、嘲笑うような声で云うのです。おのれ、お敏の体に指一本でもさして見ろ――と・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・散々待たせて、あの人はのそっとやって来、じつは欠勤した同僚の仕事をかわってやっていたため遅れたのだ、と口のなかでもぐもぐ弁解した。一時間待ちましたわ、と本を読むような調子で言うと、はあ、一時間も待ちましたか。文楽は今日はございませんのよ、と・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・柳吉はいささか吃りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好がかねがね蝶子には思慮あり気に見えていた。 蝶子は柳吉をしっかりした頼もしい男だと思い、そのように言い触らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行っ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・そうして、口をもぐもぐ動かしつつ暫く思いに沈んだのだ。私は彼のそういう困却にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻き・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・その部屋では、上品な洋服の、青白い顔をした十歳くらいの男の子が、だらし無く坐ってもぐもぐ菓子を食いながら、家庭教師に算術を教えてもらっていた。この料理屋の秘蔵息子なのかも知れない。家庭教師のほうは、二十七八の、白く太った、落ちついている女性・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・労働者は喜んで何か口の中でもぐもぐ言いながらその若者を拝むようなまねをした。ちょっとした芝居であった。その車の入り口のいちばん端にいた浴衣がけの若者が、知らん顔をしてはいたが、片腕でしっかり壁板を突っぱって酔漢がころげ落ちないように垣を作っ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・もう十年も前から世界中の学者が口をもぐもぐさせて云おうとしていたが、適当な言葉が出て来ないので困っていたところへ、誰かが出て来て、はっきりした言葉でそれをすぱりと云って退ければ、世界中の学者は一度に溜飲が下がったような気がするであろう。・・・ 寺田寅彦 「スパーク」
・・・嘉吉は用があったからこっちへ廻れといった風で口をもぐもぐしながら云った。けれどもその眼はじっとおみちを見ていた。(あっ、こっちですか。今日は。ご飯中をどうも失敬しました。ちょっとお尋ねしますが、この上流若いかばんを持って鉄槌をさげた学生・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・ この時突然、店の庭先で太鼓がとどろいた、とんと物にかまわぬ人のほかは大方、跳り立って、戸口や窓のところに駆けて出た、口の中をもぐもぐさしたまま、手にナフキンを持ったままで。 役所の令丁がその太鼓を打ってしまったと思うと、キョトキョ・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫