・・・あるいはまた急に踏まれた安価にまけて、買い手を呼び止める、買い手はそろそろ逃げかけたので、『よろしい、お持ちなされ!』 かれこれするうちに辻は次第に人が散って、日中の鐘が鳴ると、遠くから来た者はみな旅宿に入ってしまった。 シュー・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・こんな日にもぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯さっていなかっただけを、僕は褒めて置くね。」 秀麿は真面目ではあるが、厭がりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・わたしはこうして毎日通う塩浜の持ち主のところにいます。ついそこの柞の森の中です。夜になったら、藁や薦を持って往ってあげましょう」 子供らの母は一人離れて立って、この話を聞いていたが、このとき潮汲み女のそばに進み寄って言った。「よい方に出・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ところで何を打ち明けるにも、微かな溜息とか、詞のちょいとした不思議な調子とか云うものしか持ち合せない女が、まだ八分通りしか迷っていなかったのでございますからね。男。そうですか。ああ。そうでしたか。わたくしは馬鹿ですなあ。貴夫人。そこ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・狭い胸には持ちかねて母上に言い出づれば、あれほどに心強うおじゃるよ。看経も時によるわ、この分きがたい最中に、何事ぞ、心のどけく。そもこの身の夫のみのお身の上ではなくて現在母上の夫さえもおなじさまでおじゃるのに……さてもさても。武士の妻はかほ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・題材の持ち得る一番困難なところが一つも書いてはなくて、どうすれば成功するかという苦心の方が目立ってきて、完璧になっている。いいかえれば一番に失敗をしているのだ。佐助の眼を突く心理を少しも書かずに、あの作を救おうという大望の前で、作者の顔はこ・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・曠着を着まして、足を爪立てまして、手には花束を持ちまして。」 一間の内はひっそりとしている。外で振っていた鐸の音さえも絶えてしまった。 フィンクは目をって闇の中を見ている。そしてあの声がまだ何か云うだろうと思って待っている。あの甘い・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
一 私は近ごろ、「やっとわかった」という心持ちにしばしば襲われる。対象はたいていこれまで知り抜いたつもりでいた古なじみのことに過ぎない。しかしそれが突然新しい姿になって、活き活きと私に迫って来る。私は時にいくらかの誇張をもって、・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫