・・・死んだやうになつてゐた数秒、しかし再び意識をとり戻した彼が、勇敢にも駈け出した途端に両手に煉瓦を持つて待ちぶせてゐた一人が、立てつづけに二個の煉瓦を投げつけ、ひるむところをまたもや背後から樫棒で頭部を強打したため、かの警官はつひにのめるやう・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ ちかごろヴィタミンCやBの売薬を何となく愛用している私は、いもりの黒焼の効能なぞには自然疑いをもつのであるが、けれども仲の悪い夫婦のような場合は、効能が現われるという信念なり期待なりを持っていると、つい相手の何でもない素振りが自分に惚・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ 三味線をもつ真似をしてみせ、けろりとしていた。「――なるほどね」 と、おれも平気な顔をしていた筈だが、果してどうか。実は内心唸っていたのだ。が、いつまでもお千鶴のことを立ち話にきくのも変だと、すぐ話をかえて、「――ところで・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・で「小田は十銭持つと、渋谷へばかし行っているそうじゃないか」友人達は斯う云って蔭で笑っていた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云っては、その度に五十銭一円と強請って来た。Kは小言を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・自分はいつか自分の経験している世界を怪しいと感じる瞬間を持つようになって行った。町を歩いていても自分の姿を見た人が「あんな奴が来た」と言って逃げてゆくのじゃないかなど思ってびっくりするときがあった。顔を伏せている子守娘が今度こちらを向くとき・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・時に吉さん女房を持つ気はないかね』と、突然におかしな事を言い出されて吉次はあきれ、茶店の主人幸衛門の顔をのぞくようにして見るに戯談とも思われぬところあり。『ヘイ女房ね。』『女房をサ、何もそんなに感心する事はなかろう、今度のようなちよ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 子どももなく、生活にも困らない夫婦は、何か協同の仕事を持つことで、真面目な課題をつくるのが、愛を堅め、深くする方法ではあるまいか。 すなわち学校、孤児院の経営、雑誌の発行、あるいは社会運動、国民運動への献身、文学的精進、宗教的奉仕・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・なんにでも不平を持つ。かと思うと、おこって然るべき時に、おこらず、だまってにやけこんで居る。 どんなにいゝ着物をきせても、百姓が手織りの木綿を着たようにしか見えない。そんな男だ。体臭にまで豚小屋と土の匂いがしみこんで居る。「豚群」とか「・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・するとやがてそのアーチの処へ西洋諸国の人にとっては東洋の我が思うのとは違った感情を持つところの十字架の形が、それも小さいのではない、大きな十字架の形が二つ、ありあり空中に見えました。それで皆もなにかこの世の感じでない感じを以てそれを見ました・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・ ――俺もしばらくして、せきとくさめに自分のスタイルを持つことに成功した。 オン、ア、ラ、ハ、シャ、ナウ 高い窓から入ってくる日脚の落ち場所が、見ていると順々に変って行って――秋がやってきた。運動から帰ってきて、・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫