・・・「せきが出るな――せきの時は食べにくいもんだが、これなら他のものと違ってもつから、ほまちに食いなされ」 麦粉菓子を呉れる者があった。「寒さに向って、体気をつけなんしょよ」と或る者は真綿をくれた。元村長をした人の後家のところで・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・母親が霍乱で夜明まで持つまいと申すことでござります。どうぞ格別の思召でお暇を下さって、一目お逢わせ下さるようにと、そう云うのだ。急げ」「は」と云って、文吉は錦町の方角へ駆け出した。 酒井亀之進の邸では、今宵奥のひけが遅くて、りよ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・殊に子供を持つようになってからはなおさらそれが激しくなった。親としての作家と、作家としての作家と、区別はないようであるけれども、駄作を承認する襟度に一層の自信を持つようになったのは、親としての作家が混合して来た結果である場合によることが多い・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・これから頭を反らし、そ知らぬ表情をとることは、要するに、それはすべてが偽せものたるべき素質をもつことを証明しているがごときものだった。実に静静とした美しさで、そして、いつの間にかすべてをずり落して去っていく、恐るべき魔のような難題中のこの難・・・ 横光利一 「微笑」
・・・「大略がさつなるをもつて、をごりやすうして、めりやすし」。好運の時には踏んぞりかえるが、不幸に逢うとしおれてしまう。口先では体裁のよいことをいうが、勘定高いゆえに無慈悲である。また見栄坊であって、何をしても他から非難されまいということが先に・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・ そういうことの行なわれていた間の日本人の思想的情況を知る材料として、私は『甲陽軍鑑』に非常に興味を持つのである。 この書は、それ自身の標榜するところによると、武田信玄の老臣高坂弾正信昌が、勝頼の長篠敗戦のあとで、若い主人のために書・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・は何ほどかこの茸と同じき構造をもつと言ってよい。 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫