・・・挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞めば踞むを透し視めて、今はしも激しく恐怖し、慌しく駈出帽子を目深に、オーバーコートの鼠色なるを被、太き洋杖を持てる老紳士、憂鬱なる重き態度にて登場。・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・然も互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落と云えば磊落とも云えるが、岡村は決して磊落な質の男ではない。それにしても岡村の家は立派な士族で、此地にあっても上流の地位に居ると聞いてる。こんな調子で土地の者とも交際して居るのかしらなど考え・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・とやれ旧道徳だの現代的でないのと云うが、今の世にえらいと云われてる人達には、意気で人と交わるというような事はないようだね、身勝手な了簡より外ない奴は大き面をしていても、真に自分を慕って敬してくれる人を持てるものは恐らく少なかろう、自分の都合・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であっ・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・ 蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は畑、左は堤の上を一列に老・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・お正月も過ぎてしまえば、たのしみとして待ったほどのことはなく、あまりにあツけなく過ぎて結局又一ツ年を取って老いて行くのだが、それでもなにか期待の持てる張りあいのある気持で、藁をそぐってかざりを組み、山へ登って、松を伐ってくる。七日には、なな・・・ 黒島伝治 「四季とその折々」
・・・ 既に掠奪の経験をなめている百姓は、引き上げる時、金目になるものや、必要な品々を持てるだけ持って逃げていた。百姓は、鶏をも、二本の脚を一ツにくくって、バタバタ羽ばたきするやつを馬の鞍につけて走り去った。だが産んだばかりの卵は持って行く余・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ それを聞いてから、私は両手に持てるだけ持っていた袋包みをどっかとお徳の前に置いた。「きょうはみんなの三時にと思って、林檎を買って来た。ついでに菓子も買って来た。」「旦那さんのように、いろいろなものを買って提げていらっしゃるかた・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・勇気のある行動をしても、そのあらゆる結果について、責任が持てるかどうか。自分の周囲の生活様式には順応し、これを処理することに巧みであるが、自分、ならびに自分の周囲の生活に、正しい強い愛情を持っていない。本当の意味の謙遜がない。独創性にとぼし・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・人は、もし、ほんとうに自身を虚しくして、近親の誰かつまらぬひとりでもよい、そこに暮しの上での責任を負わされ生きなければならぬ宿業に置かれて在るとしたならば、ひとは、みじんも余裕など持てる筈がないではないか。世評に対しては、ゲエテは、やはり善・・・ 太宰治 「春の盗賊」
出典:青空文庫