・・・ まさ子は、半分起き上った床の上で、物懶そうに首を廻し、入って来る娘を見た。「どうもはっきりしないんで困っているのさ――温泉はどうだったい――よく来たね」「いやに萎れた声ね、どんななの?」 まさ子は、床の裾に腹這いになってい・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・命あっての物種、というその命をじかに脅かされることであるから、生命保存のために、人々の全努力が、瞬間の命を守るたたかいに集注される。 絶え間なく戦争の危険がふりまかれ、人々の心に不安が巣くっていれば、戦争の恐怖がどういうものであるかを経・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・夜になると、商売が単に商売――物品と金銭との交換――とはいえない面白さ、気の張りを持たせる同じ店頭に、今は日常生活の重さ、微かな物懶さ、苦るしさなどが流れている。私が何故そう奇麗でもない昼、夕刻にかけて散歩したかといえば、夜では隠れてしまう・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
二日も降り続いて居た雨が漸う止んで、時候の暑さが又ソロソロと這い出して来た様な日である。 まだ乾き切らない湿気と鈍い日差しが皆の心も体も懶るくさせて、天気に感じ易い私は非常に不調和な気分になって居た。 一日中書斎に・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・ツルゲーネフも、それにつれて外側から観察しそれぞれの時代の作品を書いて行ったが、パリにおける自身の生活の実践ではヴィアルドオ夫人に支配され、始めの時代の懶い形態から本質的には何の飛躍もしないままに残ったのである。 同じように婦人のために・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・ ――いかにも物懶さと云い、何処やら地から生え抜き日本離れのした雰囲気と云い、面白いのだが、私共は或虫、その他心配で迚も泊る気にはなれなかった。私は旅館の相談旁々、紹介を得て来た図書館長の永山氏に電話をかけた。私、早口になると見え、電話・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが――それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・彼等は、自分たちが訪問することさえ思いつかなかったセミョーノフの不潔きわまる地下室「日がな一日沸ぎっている湯が眠そうに、気懶るそうにピストンを動かし」「濃い、臭い、いきれ立つ湯気の中で」日頃彼等の夢想しつつある民衆の新たな一典型が成長しつつ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・暖い大地の、不思議な物懶さと、陰鬱が、にぎやかな色彩に包まれて澱んで居るのである。南部に近い温帯の眠たさ、永遠の晩秋で冬は来ないのだろう。風のない、ひっそりとした風景。 耳の長いドンキに、綿をつんで、赤ちゃけた道をコロコロと転って行・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
出典:青空文庫