・・・今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買、淫売買、ないし野合、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところで・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・紅色の屋号の電燈が怪しき流星のごとき光を放つ。峰から見透しに高い四階は落着かない。「私も下が可い。」「しますると、お気に入りますかどうでございましょうか。ちとその古びておりますので。他には唯今どうも、へい、へい。」「古くっても構・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・一 淡島氏の祖――馬喰町の軽焼屋 椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に方って町人もまた苗字を戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部であった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 戎橋の停留所から難波までの通りは、両側に闇商人が並び、屋号に馴染みのないバラックの飲食店が建ち、いつの間にか闇市場になっていた。雑閙に押されて標札屋の前まで来た時、私はあっと思った。標札屋の片店を借りていた筈の「波屋」はもうなくなって・・・ 織田作之助 「神経」
・・・と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉を嘲った。「私らに手伝うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚一文でも無心するもんか」 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・たとい田の畔での農夫と農婦との野合からはいった結婚でさえも、仲人結婚より勝っている。こんな人生の大道を真直ぐに歩まないのでは後のことは話しにならない。夫婦道も母性愛も打ち建てるべき土台を失うわけである。その人の子を産みたいような男子、すなわ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・「そう言えば、太郎さんの家でも、屋号をつけたよ。」と、私は姪に言ってみせた。「みんなで相談して田舎風に『よもぎや』とつけた。それを『蓬屋』と書いたものか、『四方木屋』と書いたものかと言うんで、いろいろな説が出たよ。」「そりゃ、『蓬屋・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・出生の地を、その家の屋号にするというのは、之は、なかなかの野心の証拠なのであります。郷土の名を、わが空拳にて日本全国にひろめ、その郷土の名誉を一身に荷わんとする意気込みが無ければ、とても自身の生れた所の名を、家の屋号になど、出来るものではあ・・・ 太宰治 「砂子屋」
・・・双方の精神的理解、これがないというと、それはつまり野合の恋愛であって――」 石の卓に片肘をついている深水の演説口調を、三吉はやめさせたいが、彼女は上体をおこして真顔できいている。たかい鼻と、やや大きな口とが、すこしらくにみられた。三吉は・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ そもそも僕が始て都下にカッフェーというもののある事を知ったのは、明治四十三年の暮春洋画家の松山さんが銀座の裏通なる日吉町にカッフェーを創設し、パレット形の招牌を掲げてプランタンという屋号をつけた際であった。僕は開店と言わずして特に創設・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫