・・・ 太十はやっとそれだけいった。「それもそうだがな、片身に皮だけはとって置いたらどうしたもんだ」「どうでも仕てくろえ」 蚊帳の中は依然として動かなかった。二人は用意して来た出刃で毛皮を剥きはじめた。出刃が喉から腹の中央を過ぎて・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・これで私もやっと安心した。実にありがたい」 吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。 西宮は注ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・そしてやっと人づきあいのいい人間になった。「なんと云う天気だい。たまらないなあ。」 爺いさんは黙って少し離れた所に腰を掛けた。 一本腕が語り続けた。「糞。冬になりゃあ、こんな天気になるのは知れているのだ。出掛けさえしなけりゃあいいの・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・マドレエヌの所へ友達の女が来ていてそれがやっと今帰って行ったのだな。」こう思ってまた五六分間待った。そのうちそろそろ我慢がし切れなくなった。余り人を馬鹿にしているじゃないか。オオビュルナンはどこかにベルがありそうなものだと、壁を見廻した。・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・其内に附添の一人は近辺の貧乏寺へ行て和尚を連れて来る。やっと棺桶を埋めたが墓印もないので手頃の石を一つ据えてしまうと、和尚は暫しの間廻(向して呉れた。其辺には野生の小さい草花が沢山咲いていて、向うの方には曼珠沙華も真赤になっているのが見える・・・ 正岡子規 「死後」
・・・萱の中からは何べんも雉子も飛んだ。耕地整理になっているところがやっぱり旱害で稲は殆んど仕付からなかったらしく赤いみじかい雑草が生えておまけに一ぱいにひびわれていた。やっと仕付かった所も少しも分蘖せず赤くなって実のはいらない稲がそ・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ 思わず一歩退いて、胸を拳でたたきながら、「陽ちゃんたら」 やっと聞える位の声であった。「びっくりしたじゃないの。ああ、本当に誰かと思った、いやなひと!」 椅子の上から座布団を下し、縁側に並べた。「どんな? 工合」・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・そこでかれは俯んだ――もっともかねてリュウマチスに悩んでいるから、やっとの思いで俯んだ。かれは糸の切れっ端を拾い上げて、そして丁寧に巻こうとする時、馬具匠のマランダンがその門口に立ってこちらを見ているのに気がついた。この二人はかつてある跛人・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・二人は赤い柱の下に、傘を並べて立っていて、車を二台も遣り過して、やっとの事で乗った。 二人共弔皮にぶら下がった。小川はまだしゃべり足りないらしい。「君。僕の芸術観はどうだね。」「僕はそんな事は考えない。」不精々々に木村が答えた。・・・ 森鴎外 「あそび」
出典:青空文庫