・・・五月闇おぼつかなき山の奥から鳴いて出づる郭公と共に止み難い何ものかの力を同感しているように思われる。作者は傍観せず、鎌倉の山の木立深い五月闇をおかして鳴き出づる郭公の心になっていると感じるのは私の誤りだろうか、実朝は、切な歌を多く遺した。・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・ 一汗小母さんがかいて自分の賞品のわきへどくと、音楽は一寸止み、今度は火花の散るような急調な舞踏曲がはじまった。踊り達者で名うてのオリガが、重い防寒靴をはいているとは信じられない身軽さで、つと輪の真中にでた。機械工体育部水泳選手のドミト・・・ 宮本百合子 「ソヴェト同盟の三月八日」
・・・ 私の声を聞き付けて馳け付けた母に抱かれて泣き止みはしたけれ共その時からどうしても棺の傍へもよれなくなって仕舞った。 何と云う気味の悪い顔色で有ったろう。 絵に見、自分の想像の中のお化けそっくりの細い骨だらけの痩せ切った顔の様子・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・十二月一日 病みてあれば 又病みてあればらちなくも 冬の日差しの悲しまれける 着ぶくれて見にくき姿うつしみて わびしき思ひ鏡の面 今の心語りつたへんとももがなと 空しき宙に姿絵をかく ・・・ 宮本百合子 「日記」
・・・それにあの男の作は癲癇病みの譫語に過ぎない。Gorki は放浪生活にあこがれた作ばかりをしていて、社会の秩序を踏み附けている。これも危険である。それに実生活の上でも、籍を社会党に置いている。Artzibaschew は個人主義の元祖 Sti・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・崖を下りて渓川の流に近づかんとしたれど、路あまりに嶮しければ止みぬ。渓川の向いは炭焼く人の往来する山なりという。いま流を渡りて来たる人に問うに、水浅しといえり。この日野山ゆくおりに被らばやとおもいて菅笠買いぬ。都にてのように名の立たん憂はあ・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫