・・・しかも海路を立ち退くとあれば、行く方をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗をかけて打たねばならぬ。――左近はこう咄嗟に決心すると、身仕度をする間も惜しいように、編笠をかなぐり捨てるが早いか、「瀬沼兵衛、加納求馬が兄分・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ その内に彼はふと足を止めると、不審そうに行く手を透かして見た。それは彼の家の煉瓦塀が、何歩か先に黒々と、現われて来たからばかりではない、その常春藤に蔽われた、古風な塀の見えるあたりに、忍びやかな靴の音が、突然聞え出したからである。・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬を抱きとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体を震わせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かな家にいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ と女房は呼止める。 奴は遁げ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附で、「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待ッてばねえ。」 衝と身を起こして追おうとすると、奴は駈出した五足ばかり・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 投げ棄つるがごとくかく謂いつつ、伯爵夫人は寝返りして、横に背かんとしたりしが、病める身のままならで、歯を鳴らす音聞こえたり。 ために顔の色の動かざる者は、ただあの医学士一人あるのみ。渠は先刻にいかにしけん、ひとたびその平生を失せし・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・……どれも大事な小児たち――その過失で、私が学校を止めるまでも、地じだんだを踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を委ねる学校の分として、婦、小児や、茱萸ぐらいの・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・枕をば高くしつ。病める人は頭埋めて、小やかにぞ臥したりける。 思いしよりなお瘠せたり。頬のあたり太く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐りもやらで、襖の・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ただお煩さの余りでも、「こんな姿になるだけは、堅く止める。」と、おっしゃいました。……あの先刻のお一言で、私は死ぬのだけは止めましてございます。先生、――私は、唯今では、名ばかりの貧乏華族、小糸川の家内でございますが。画家 ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 言いかけて、お君を犯したことをふと想いだし、何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした。 軽部はお君と結婚したことを後悔した。しかし、お君が翌年の三月男の子を産むと、日を繰ってみて、ひやっとし、結婚してよか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・ 時どき彼は、病める部分を取出して眺めた。それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。 三 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。―― 彼は酔っ払った嫖客や、嫖客を呼びとめる女の声・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫