・・・帰りに矢来から江戸川の終点へ出ると、明き地にアセチリン瓦斯をともして、催眠術の本を売っている男がある。そいつが中々たくれいふうはつしているから、面白がって前の方へ出て聞いていると、あなたを一つかけて上げましょうと云われたので、そうそう退却し・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
一 雪の夜路の、人影もない真白な中を、矢来の奥の男世帯へ出先から帰った目に、狭い二階の六畳敷、机の傍なる置炬燵に、肩まで入って待っていたのが、するりと起直った、逢いに来た婦の一重々々、燃立つような長襦袢・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 十九日、夜来の大雨ようよう勢衰えたるに、今日は待ちに待ちたる松島見んとて勇気も日頃にましぬ。いでやと毛布深くかぶりて、えいさえいさと高城にさしかかれば早や海原も見ゆるに、ひた走りして、ついに五大堂瑞岩寺渡月橋等うちめぐりぬ。乗合い船に・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
子規の自筆を二つ持っている。その一つは端書で「今朝ハ失敬、今日午後四時頃夏目来訪只今帰申候。寓所ハ牛込矢来町三番地字中ノ丸丙六〇号」とある。片仮名は三字だけである。「四時頃」の三字はあとから行の右側へ書き入れになっている。・・・ 寺田寅彦 「子規自筆の根岸地図」
・・・道傍の氷店に入ってラムネ一瓶に夜来の渇望も満たしたればこゝに小荷物を預けて楠公祠まで行きたり。亀の遊ぶのを見たりとて面白くもなし湊川へ行て見んとて堤を上る。昼なれば白面の魎魅も影をかくして軒を並ぶる小亭閑として人の気あるは稀なり。並木の影涼・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓していた。自分のたずねた時は大きな木箱に書物のいっぱいつまった荷が着いて、土屋君という人がそれをあけて本を取り出していた。そのとき英国の美術館にある名画の写真をいろいろ見せられて、その・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・ ある電車運転手は途中で停車して共同便所へ一時雲隠れしたそうである。こうなると運転手にも人間味が出て来るから妙である。 矢来下行き電車に乗って、理研前で止めてもらおうとしたが、後部入り口の車掌が切符切りに忙しくてなかなか信号ベルのひ・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・始めは、材木や何かをつんで置いたところに居たが、あとで気がついて竹で矢来をくみ、なかに、スレート、石のような不燃焼物のあるところにうつり、包を一つスレートの間に埋めて居た。が、火の手が迫って来ると、あついし、息は苦しいし、大きな火の子が、ど・・・ 宮本百合子 「大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録」
・・・そして、段々矢来の方へ来ると、彼処を通ったことのある人は誰でも知っている左側の家具屋、丁度その前のところを歩いている一人の若い女に目がついた。そこいらで人通りが疎になったばかりではない。若い女の服装が夜目に際立って派手であった。薄紫に白で流・・・ 宮本百合子 「茶色っぽい町」
・・・ 長崎のステイションも、夜来の雨で、アスファルトが泥でよごれている。僅かの旅客の後に跟き、私共は漠然期待や好奇心に満ちて改札口を出た。赤帽と、合羽を着た数人の俥夫が我々をとり巻いた。「お宿はどこです」「お俥になさいますか」「・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫