・・・火がぱっと燃えると、おとよさんの結い立ての銀杏返しが、てらてらするように美しい。省作はもうふるえが出て物など言えやしない。「おとよさんはもうお湯が済んで」 と口のうちで言っても声には出ない。おとよさんはやがて立った。「おオ寒い、・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆の花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭の大きいのを見つけた。・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おとよといっしょというのでお千代も娘作りになる。同じ銀杏返し同じ袷小袖に帯もやや似寄った友禅縮緬、黒の絹張りの傘もそろいの色であった。緋の蹴出しに裾端折って二人・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「あら、厭な姉さん!」「だって、本当なんだもの。束髪も気が変っていいのね」「結いつけないから変よ」 媼さんが傍から、「お光さんこそいつ見ても奇麗でおいでなさるよね。一つは身飾みがいいせいでもおありでしょうが、二三年前とちっと・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ ある日寺田屋へ、結いたての細銀杏から伽羅油の匂いをプンプンさせた色白の男がやってきて、登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっているゆえ、開けてみてはならんぞ。脅すような口を利いて帰って行った。五十吉といい今は西洞院の紙問屋の番・・・ 織田作之助 「螢」
・・・ その日になると、お絹は昼ごろ髪を結いに行って、帰ってくると、珍らしくおひろの鏡台に向かっていたが、おひろもお湯に行ってくると、自分の意匠でハイカラに結いあげるつもりで、抱えの歌子に手伝わせながら、丹念に工夫を凝らしていたが、気に入らな・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 然らば当今の女子、その身には窓掛に見るような染模様の羽織を引掛け、髪は大黒頭巾を冠ったような耳隠しの束髪に結い、手には茄章魚をぶらさげたようなハンドバッグを携え歩む姿を写し来って、宛然生けるが如くならしむるものはけだしそのモデルと時代・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・他の女給仕人のように白粉もさして濃くはせず、髪も縮らさず、箆のような櫛もささず、見馴れた在来のハイカラに結い、鼠地の絣のお召に横縦に縞のある博多の夏帯を締めていた。顔立は面長の色白く、髪の生際襟足ともに鮮に、鼻筋は見事に通って、切れ長の眼尻・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・きっと寂しい眼付をして窓の外を眺め、髪を結いかけていた肱を一寸落さなかったと如何うして云える? 起きてから、彼女は断った招宴について一言も云わなかった。けれども彼は、彼女の寡言の奥に、押し籠められている感情を察し抜いた。その一層明らかな・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 柩の両端に太い麻繩は結いつけられて二人の屈強な男の手によって、頭より先に静かに――静かに下って行く。 降りそそぐ小雨の銀の雨足は白木の柩の肌に消えて行く。 スルスル……、スルスル、麻繩は男の手をすべる。 トトト……、トトト・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫