・・・都の噂ではその卒塔婆が、熊野にも一本、厳島にも一本、流れ寄ったとか申していました。」「千本の中には一本や二本、日本の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに冥護を信ずるならば、たった一本流すが好い。その上康頼は難有そうに、千本の卒塔婆を流・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・伊勢は七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。 明治三十八乙巳年十月吉日鏡花、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛がまたはらはら。「寒く・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ そう言えば湯屋はまだある。けれども、以前見覚えた、両眼真黄色な絵具の光る、巨大な蜈むかでが、赤黒い雲の如く渦を巻いた真中に、俵藤太が、弓矢を挟んで身構えた暖簾が、ただ、男、女と上へ割って、柳湯、と白抜きのに懸替って、門の目印の柳と共に・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・、杖の端の輝く銀とを心すともなく直視めながら、一歩進み二歩行く内、にわかに颯と暗くなって、風が身に染むので心着けば、樹蔭なる崖の腹から二頭の竜の、二条の氷柱を吐く末が百筋に乱れて、どッと池へ灌ぐのは、熊野の野社の千歳経る杉の林を頂いた、十二・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・……私の隣の松さんは、熊野へ参ると、髪結うて、熊野の道で日が暮れて、あと見りゃ怖しい、先見りゃこわい。先の河原で宿取ろか、跡の河原で宿取ろか。さきの河原で宿取って、鯰が出て、押えて、手で取りゃ可愛いし、足で取りゃ・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――でも自害をなさいました、後一年ばかり、一時はこの土地で湯屋でも道端でも唄って、お気の弱いのをたっとむまでも、初路さんの刺繍を恥かしい事にいいましたとさ。 ――あれあれ見たか、あれ見たか――、銀の羽がそのまま手足で、二つ蜻蛉が何とかで・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 旅行の暮の僧にて候 雪やこんこん、あられやこんこんと小褄にためて里の小娘は嵐の吹く松の下に集って脇明から入って来る風のさむいのもかまわず日のあんまり早く暮れてしまうのをおしんで居ると熊野を参詣した僧が山々の□(所を越えてよ・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・そのまま下へ行って、僕のおこっていることを言い、湯屋で見たことを妬いているのだということがもしも下のものらに分ったら、僕一生の男を下げるのだと心配したから、「おい、おい!」と命令するような強い声を出した。それでも、かの女は行ってしまった・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌になって鼻唄か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽に捉まったままもう冷たくなってたのさ。やっぱり卒中で・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・おや、お揃いで、どこへ行くんだい?」 下駄屋の前を通って、四ツ角を空の方へ折れたところで、饂飩屋にいたスパイがひょっこり立って出て来た。スパイは、饂飩屋で饂飩を食って金を払わない。お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
出典:青空文庫