・・・「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・しかし、鴨の獲れない事を痛快がっていた桂月先生も、もう一度、一ノ橋の河岸へあがると、酔いもすこし醒めたと見え「僕は小供に鴨を二羽持って帰ると約束をしてきたのだが、どうにかならないものかなあ、何でも小供はその鴨を学校の先生にあげるんだそうだ」・・・ 芥川竜之介 「鴨猟」
・・・ しばらくの後、桂月香と彼女の兄とは酔い伏した行長を後にしたまま、そっとどこかへ姿を隠した。行長は翠金の帳の外に秘蔵の宝剣をかけたなり、前後も知らずに眠っていた。もっともこれは必ずしも行長の油断したせいばかりではない。この帳はまた鈴陣で・・・ 芥川竜之介 「金将軍」
・・・佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と鼎座になって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た蒲団を柏に着てぐっすり寝込ん・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 探偵でせえ無けりゃそれで好いんだ、馬鹿正直。而して暫くしてから、 だが虫かも知れ無え。こう見ねえ、斯うやって這いずって居る蠅を見て居ると、己れっちよりゃ些度計り甘めえ汁を嘗めているらしいや。暑さにもめげずにぴんぴんしたものだ。・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・「そりゃあ己だって無論好い心持はしないさ。しかしみんながそんな気になったら、それこそ人殺しや犯罪者が気楽で好かろうよ。どっちかに極めなくちゃあならないのだ。公民たるこっちとらが社会の安全を謀るか、それとも構わずに打ち遣って置くかだ。」・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ それだから、好い子、お前は釣をしておいで。 お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目にこの醜い犬を見付けて、この犬をさえ、良い犬可哀い犬・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らし・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・五経、文選すらすらで、書がまた好い。一度冥途をってからは、仏教に親んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩で、そう毎々でもないが、時々は往来をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣られて、煎餅も貰えば、小母さんの・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
出典:青空文庫