・・・病人は「如何したら良いんでしょう」と私に相談です。私は暫く考えていましたが、願わくば臨終正念を持たしてやりたいと思いまして「もうお前の息苦しさを助ける手当はこれで凡て仕尽してある。是迄しても楽にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言うもの・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 一人の青年はビールの酔いを肩先にあらわしながら、コップの尻でよごれた卓子にかまわず肱を立てて、先ほどからほとんど一人で喋っていた。漆喰の土間の隅には古ぼけたビクターの蓄音器が据えてあって、磨り滅ったダンスレコードが暑苦しく鳴っていた。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・おそらくこれが人の好い聾の態度とでもいうのだろう。だから商売は細君まかせである。細君は醜い女であるがしっかり者である。やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆を塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ ずらっと並んだ洋酒の壜を見ながら自分は少し麦酒の酔いを覚えていた。 三 ライオンを出てからは唐物屋で石鹸を買った。ちぐはぐな気持はまたいつの間にか自分に帰っていた。石鹸を買ってしまって自分は、なにか今のは変だと・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 砂山が急に崩げて草の根で僅にそれを支え、其下が崕のようになって居る、其根方に座って両足を投げ出すと、背は後の砂山に靠れ、右の臂は傍らの小高いところに懸り、恰度ソハに倚ったようで、真に心持の佳い場処である。 自分は持て来た小説を懐か・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・二郎はいたく酔い、椅子の背に腕を掛けて夢現の境にありしが、急に頭をあげて、さなりさなりと言い、再び眼を閉じ頭を垂れたり。 もし君が言わるるごとくば世には報酬なくして人の愛を盗みおおせし男女はなはだ多しと、十蔵はいきまきぬ。 われ、な・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ すき腹に飲んだので、まもなく酔いがまわり、やや元気づいて来た。顔を上げて我れ知らずにやりと笑った時は、四角の顔がすぐ、「そら見ろ、気持ちが直ったろう。飲れ飲れ、一本で足りなきゃアもう一本飲れ、わしが引き受けるから。なんでも元気をつ・・・ 国木田独歩 「窮死」
一 倫理的な問いの先行 何が真であるかいつわりであるかの意識、何が美しいか、醜いかの感覚の鈍感な者があったら誰しも低級な人間と評するだろう。何が善いか、悪いか、正不正の感覚と興味との稀薄なことが人間として低・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・銘々勝手な事を読んで行って勝手な質問をする、それが唯一の勉強法なのでしたが、中には何を読んで好いか分らないという向がある。すると、正直に先生に其の旨をいって御尋ねする、それなら何を読んだら宜敷かろうと、学力相応に書物を指定して下さるといった・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・「一揆がはじまりゃあ占めたもんだ。「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝はどうするというんだエ。「構うことあ無えやナ、岩崎でも三井でも敲き毀して酒の下物にしてくれらあ。「酔いもしない中からひどい管だねエ、バアジンへ押込・・・ 幸田露伴 「貧乏」
出典:青空文庫