・・・ 彼は原稿用紙の第一行に書かれている「掏摸の話」という題を消して、おもむろに、「あわて者」 という題を書いた。そして、あわて者を主人公にした小説を書き出した。 織田作之助 「経験派」
・・・ 武田さんはそれらの客にいちいち相手になったり、将棋盤を覗き込んだり、冗談を言ったり、自分からガヤガヤと賑かな雰囲気を作ってはしゃぎながら、新聞小説を書いていたが、原稿用紙の上へ戻るときの眼は、ぞっとするくらい鋭かった。 書き終って・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・机の上の用紙には、(千日前の大阪劇場の楽屋の裏の溝 と、書出しの九行が書かれているだけで、あと続けられずに放ってあるのは、その文章に「の」という助辞の多すぎるのが気になっているだけではなかった。その事件を中心に昭和十年頃の千日前の風・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 仁丹を買うためにパトロンを作った彼女は、煙草も酒も飲まず、酒場のボックスでは果物一つ口にしない行儀のよさが、吉田の学生街のへんに気取ったけちくさいアカデミックな雰囲気に似合っており、容姿にも何かあえかなノスタルジアがあった。 そん・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・四五日まえに、妹が近々聟養子を迎えて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆れてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出し・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 刑務所の書信用紙というのは赤刷りの細かい罫紙で、後の注意という下の欄には――手紙ノ発受ハ親類ノ者ニノミコレヲ許スソノ度数ハ二カ月ゴトニ一回トス賞表ヲ有スル在所人ニハ一回ヲ増ス云々――こういった事項も書きこまれてある。そして手紙の日づけ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・径の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の類がはえていた。この径ではそういった矮小な自然がなんとなく親しく――彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺のなかでのように、眺められた。また径の縁には赤土の露出が雨滴にたたかれて、ちょうど風化作用に骨立った岩石・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりの楽でした、矢張上村君の亜米利加風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取までしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火を見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄ん・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ そして僕は今井に養子にもらわれた。叔父さんが僕のおとっさんになった、僕はその後何度もお伴をして猟に行ったが、岩烏を見つけるとソッと石を拾って追ってくれた、義父が見ると気嫌を悪くするから。 人のいい優しい、そして勇気のある剛胆な、義・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ 三十の年に恩人の無理じいに屈して、養子に行き、養子先の娘の半気違いに辛抱しきれず、ついに敬太郎という男の子を連れて飛びだしてしまい、その子は姉に預けて育ててもらう、それ以後は決して妻帯せず、純然たるひとり者で、とうとう六十余歳まで通し・・・ 国木田独歩 「二老人」
出典:青空文庫