・・・――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物にきざ柿と楊枝とを買いました、……石段下のそこの小店のお媼さんの話ですが、山王・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 一個の幼児を抱きたるが、夜深けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊め、着たる襤褸の綿入れを衾となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・濃く香しい、その幾重の花葩の裡に、幼児の姿は、二つながら吸われて消えた。 ……ものには順がある。――胸のせまるまで、二人が――思わず熟と姉妹の顔を瞻った時、忽ち背中で――もお――と鳴いた。 振向くと、すぐ其処に小屋があって、親が留守・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・いちじくの葉かげから見えたのは、しごき一つのだらしない寝巻き姿が、楊枝をくわえて、井戸端からこちらを見て笑っている。「正ちゃん、いいものをあげようか?」「ああ」と立ちあがって、両手を出した。「ほうるよ」と、しなやかにだが、勢いよ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲の用事は何でも引受ける重宝人であった。その頃訴訟のため度々上府した幸手の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 鴎外は幼時神童といわれたそうだ。虚実は知らぬが、「十ウで神童、ハタチで才子、二十以上はタダの人というお約束通り、森の子も行末はタダの人サ、」と郷人の蔭口するのを洩れ聞いて発憤して益々力学したという説がある。左に右く天禀の才能に加えて力・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 私が幼時から親しんでいた『八犬伝』というは即ちこの外曾祖父から伝えられたものだ。出版の都度々々書肆から届けさしたという事で、伝来からいうと発行即時の初版であるが現品を見ると三、四輯までは初版らしくない。私の外曾祖父は前にもいう通り、『・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・一言すれば二葉亭は能く外国思想に熟していたが、同時にやはり幼時から染込んだ東洋思想を全く擺脱する事が出来ないで、この相背馳した二つの思想の※着が常に頭脳に絶えなかったであろう。二葉亭が遊戯分子というは西鶴や其蹟、三馬や京伝の文学ばかりを指す・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・私も毎日、神さまをありがたいと心ではお礼を申さない日はないが、つい用事にかまけて、たびたびお山へおまいりにゆきもしない。いいところへ気がつきなされた。私の分もよくお礼を申してきておくれ。」と、おじいさんは答えました。 おばあさんは、とぼ・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・それだのにこうして医者にも見せずにしかも幼児の守をさして置くのは畢竟貧しいが為ではなかろうか。人は境遇によって自然と奮闘する力の強弱がある。此児は果して生を保ち得ようか? ある静かな日の午後である。此家から老女の声と若い女の声とが聞えた。老・・・ 小川未明 「ある日の午後」
出典:青空文庫