・・・いつか使に来た何如璋と云う支那人は、横浜の宿屋へ泊って日本人の夜着を見た時に、「是古の寝衣なるもの、此邦に夏周の遺制あるなり。」とか何とか、感心したと云うじゃないか。だから何も旧弊だからって、一概には莫迦に出来ない。』その中に上げ汐の川面が・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・お蓮は酒臭い夜着の襟に、冷たい頬を埋めながら、じっとその響に聞き入っていた。こうしている内に彼女の眼には、いつか涙が一ぱいに漂って来る事があった。しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、間もなく彼女の心の上へ、昏々と下って・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに部屋を出て行った。 クララの枕はしぼるように涙に濡れていた。 無月の春の夜は次第に更けた。町の諸門をとじる合図の鐘は二時間も前に鳴ったので、コルソに集って売買に忙がしかった・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・……寝て一人の時さえ、夜着の袖を被らなければ、心に描くのが後暗い。…… ――それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密に据えようとしたのである。 成りたけ、人勢に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はある・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・静岡の何でも町端れが、その人の父が其処の屋敷に住んだところ、半年ばかりというものは不思議な出来事が続け様で、発端は五月頃、庭へ五六輪、菖蒲が咲ていたそうでその花を一朝奇麗にもぎって、戸棚の夜着の中に入れてあった。初めは何か子供の悪戯だろうく・・・ 泉鏡花 「一寸怪」
・・・……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ夜着で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に外出がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらい・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 時彦は頤のあたりまで、夜着の襟深く、仰向に枕して、眼細く天井を仰ぎながら、「塩断もしてるようだ。一昨日あたりから飯も食べないが、一体どういう了簡じゃ。」といわんは、渠の良心の許さざりけむ、差俯向きてお貞は黙しぬ。「あかりが・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ 嚔もならず、苦り切って衝立っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜に低う夜着の綴糸も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽に呻いた・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・ 猫は吉田の枕のところへやって来るといつものように夜着の襟元から寝床のなかへもぐり込もうとした。吉田は猫の鼻が冷たくてその毛皮が戸外の霜で濡れているのをその頬で感じた。すなわち吉田は首を動かしてその夜着の隙間を塞いだ。すると猫は大胆にも・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・肩のところへ坐って夜着の袖をも押えてくれる。自分は何だか胸苦しいような気がする。やがてあちらで藤さんが帯を解く気色がする。章坊は早く小さな鼾になる。自分は何とはなしに寝入ってしまうのが惜しい。「ね、小母さん」とふたたび話しかける。「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫