・・・いろんな事を考えて夜着の領をかんでいると、涙が目じりからこめかみを伝うて枕にしみ入る。座敷では「夜の雨」をうたうのが聞こえる。池の竜舌蘭が目に浮かぶと、清香の顔が見えて片頬で笑う。 この夜すさまじい雷が鳴って雨雲をけ散らした。朝はすっか・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・京都では袖のある夜着はつくらぬものの由を主人から承って、京都はよくよく人を寒がらせる所だと思う。 真夜中頃に、枕頭の違棚に据えてある、四角の紫檀製の枠に嵌め込まれた十八世紀の置時計が、チーンと銀椀を象牙の箸で打つような音を立てて鳴った。・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・余は夜着の中に耳の根まで隠した。夜着の中でも聞える。しかも耳を出しているより一層聞き苦しい。また顔を出す。 しばらくすると遠吠がはたとやむ。この夜半の世界から犬の遠吠を引き去ると動いているものは一つもない。吾家が海の底へ沈んだと思うくら・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ その夜は吹荒さむ生温い風の中に、夜着の数を減して、常よりは早く床についたが、容易に寝つかれない晩であった。締りをした門を揺り動かして、使いのものが、余を驚かすべく池辺君の訃をもたらしたのは十一時過であった。余はすぐに白い毛布の中から出・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・ 鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな ふと眼を開けば夜はいつしか障子の破れに明けて渋柿の一つ二つ残りたる梢に白雲の往き来する様など見え渡りて夜着の透間に冬も来にけんと思わる。起き出でて簀子の端に馬と顔突き合わせながら口そそぎ手あらいす・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ 白粉と安油の臭が、プーンとする薄い夜着に、持てあますほど、けったるい体をくるんで、寒そうに出した指先に反古を巻いて、小鼻から生え際のあたりをこすったり、平手で顔中を撫で廻したりして居たけれ共一人手に涙のにじむ様な淋しい、わびしい気持を・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・而も、自分にとって、創作は冗談や余技の憂さ晴しではない、たといどんなに小さくても、自分から産み出された芸術の裡に、又は、創造しようとする努力の裡に、自分の生命の意味を認めずにはいられない力を、内から感じているのである。 これはもう第一義・・・ 宮本百合子 「概念と心其もの」
・・・ 仕立て上げて手も通さずにある赤い着物を見るにつけ桃色の小夜着を見るにつけて歎く姉の心をせめて万が一なりと知って呉れたら切ない思い出にふける時のまぼろしになり夢になり只一言でも私のこの沈み勝な心を軽く優しくあの手(さな手で撫でても呉れる・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・風邪をこじらせて二階で夜着を顎まで引上げて寝ていた。「病気をしていらっしゃると何だかお気の毒でねえ」 K先生、B学院で総指揮者、家でも総指揮者。「私は他人のためにばかり生活して自分の生活がない形ですね」といわれたそうだ。 暖かで・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・本当に私一人の慰みのためにという表現で女のひとが、自分の余技、仕事を語る。特に日本ではそれが一つの謙譲なたしなみのようにさえ見られて来た習慣があるけれども、そういう慣習こそ、わるい意味で女の仕事を中途半端なものにしてしまっていると思います。・・・ 宮本百合子 「現実の道」
出典:青空文庫