・・・菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩う。湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・何か言いたいような風であったが、談話の緒を得ないというのらしい、ただ温和な親しみ寄りたいというが如き微笑を幽に湛えて予と相見た。と同時に予は少年の竿先に魚の来ったのを認めた。 ソレ、お前の竿に何か来たよ。 警告すると、少年は慌てて向・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・「兄さん、お寄り……よ」そう言いながら、彼の顔を見て、「この前の……また、ひやかし?」と言った。「上るんだよ」ちょっと声がかすれた。「本当?」と女はきいた。 五 廊下の板が一枚一枚しのり返っていて、歩くと・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・三 ほんの三十分、いいえ、もっと早いくらい、おや、と思ったくらいに早く、ご亭主がひとりで帰って来まして、私の傍に寄り、「奥さん、ありがとうございました。お金はかえして戴きました」「そう。よかったわね。全部?」 ご・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり、人から見ると、どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋を一足買い・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・その先端の綿の繊維を少しばかり引き出してそれを糸車の紡錘の針の先端に巻きつけておいて、右手で車の取っ手を適当な速度で回すと、つむの針が急速度で回転して綿の繊維の束に撚りをかける。撚りをかけながら左の手を引き退けて行くと、見る見る指頭につまん・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・かしこの山ここの川から選り集めた名園の一石一木の排置をだれが自由に一寸でも動かしうるかを考えてみればよい。しかもこれらのいっさいを一束にしても天秤は俳諧連句のほうへ下がるであろう。 連句はその末流の廃頽期に当たって当時のプチブルジョア的・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということは実にうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショがあると言えば、それはある。しかし・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
・・・例えば『諸国咄』では義経やその従者の悪口棚卸しに人の臍を撚り、『一代女』には自堕落女のさまざまの暴露があり、『一代男』には美女のあら捜しがある。 このような批判の態度をもって西鶴が当時の武士道の世界を眺めたときに、この特殊な世界が如何に・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・ 次は当然法廷の場である、憎まれ役の検事になるべく意地のわるい弁論をさせて、被告と見物に気をもませ、被告に不利な証人だけを選りぬいて登場させる、弁護士にはなるべく口が利けないようにするが、但し後の伏線になるようにアパートの時計が二十分進・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
出典:青空文庫