・・・次の日の午時頃、浅草警察署の手で、今戸の橋場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ッたお熊の半天が脱捨てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓の用いる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨ててあッた事が知れた。お熊は泣々箕輪の無縁寺に葬むり、小万はお梅を・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ 流石は外国人だ、見るのも気持のいいようなスッキリした服を着て、沢山歩いたり、どうしても、どんなに私が自惚れて見ても、勇気を振い起して見ても、寄りつける訳のものじゃない処の日本の娘さんたちの、見事な――一口に云えば、ショウウインドウの内・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・と、裲襠を引き摺ッたまま走り寄り、身を投げかけて男の肩を抱いた。「ははははは。門迷いをしちゃア困るぜ。何だ、さッきから二階の櫺子から覗いたり、店の格子に蟋蟀をきめたりしていたくせに」と、西宮は吉里の顔を見て笑ッている。 吉里はわざと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・これはことごとく平田から来たのばかりである、捻紙を解いて調べ初めて、その中から四五本選り出して、涙ながら読んで涙ながら巻き納めた。中には二度も三度も読み返した文もあッた。涙が赤い色のものであッたら、無数の朱点が打たれたらしく見えた。 こ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ ピエエルは郵便を選り分けた。そしてイソダン郵便局の消印のある一通を忙わしく選り出して別にした。しかしすぐに開けて読もうともしない。 オオビュルナン先生はしずかに身を起して、その手紙を持って街に臨んだ窓の所に往って、今一応丁寧に封筒・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・一本選り取って見たら、頬冠した親爺が包を背負って竹皮包か何かを手に提げて居るのであった。 それから復鶩の飼うてある処を通って左千夫の家に立ちよったが主人はまだ帰らぬという事であった。いっそこのまま帰ろうかとも思うて門の内で三人相談して居・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・嘉助と三郎がもう一匹を押えようとそばへ寄りますと、馬はまるでおどろいたようにどてへ沿って一目散に南のほうへ走ってしまいました。「兄な、馬あ逃げる、馬あ逃げる。兄な、馬逃げる。」とうしろで一郎が一生けん命叫んでいます。三郎と嘉助は一生けん・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・泥まみれの選り食いも好かろう。だがな、そんな問題が起るたびに部署をすてたんじゃ、限りない退却があるばかりだ。俺はそんな敗北主義には賛成しないな」 やがて若い階級的な妻である女は、自分が良人のところへかけ込んだことを自己批判し、終局に「物・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・そして直ぐぶつぶつ、箕をふいて籾選りを仕つづけた。 それにしても雨降りよりは増しだ。 雨だと一太は納豆売りに出なかった。学校へ行かない一太は一日家に凝っとしていなければならないが、毎日野天にいることが多い一太にとってそれは実に退屈だ・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・かえりに京都へ寄り、急に思い立って大原へ行った。これはまた、何と低い新緑の茂み! 背の低い樹々が枝から枝へ連って山々、谿々を埋めている。寒い土地の初夏という紛れない感じで感歎した。 青島は、なかなか有名だ。大抵の人が知っていた、是非行っ・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
出典:青空文庫