・・・が、こう云う場合には粟野さんに対する礼儀上、当惑の風を装うことに全力を尽したのも事実である。粟野さんはいつも易やすと彼の疑問を解決した。しかし余り無造作に解決出来る場合だけは、――保吉は未だにはっきりと一思案を装った粟野さんの偽善的態度を覚・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・しかし、その、あえてする事をためらったのは、卑怯ともいえ、消極的な道徳、いや礼儀であった。 つい信也氏も誘われた。 する事も、いう事も、かりそめながら、懐紙の九ツの坊さんで、力およばず、うつくしいばけものの、雪おんな、雪女郎の、……・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・――これは鎮守様へ参詣は、奈良井宿一統への礼儀挨拶というお心だったようでございます。 無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お膳で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私…・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・て用意ある晩食が行われる、それぞれ身分相当なる用意があるであろう、日常のことだけに仰山に失するような事もなかろう、一家必ず服を整え心を改め、神に感謝の礼を捧げて食事に就くは、如何に趣味深き事であろう、礼儀と興味と相和して乱れないとせば、聖人・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・ 何しろ社交上の礼儀も何も弁えない駈出しの書生ッぽで、ドンナ名士でも突然訪問して面会出来るものと思い、また訪問者には面会するのが当然で、謝絶するナゾとは以ての外の無礼と考えていたから、何の用かと訊かれてムッとした。「何の用事もありま・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・例えば今日吾々の間に存在する日常の習慣や礼儀等はどれ程の価値あるものであろうか。試みに小学校の修身書を一瞥してもすぐ分ることであるが、その並べられた題目と、其れに関する概念的な口授式の教授ぶりとが、ほんとうの人間性の結晶と思っては大間違であ・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・あるいは席にこぼれ、廊下を歩く娘たちの活々とした、しかし礼儀ある物ごし――寄宿舎に帰っても、美の幻にまだつつまれてるようだ。それは学べよ、磨けよというようだ。 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・やさしき心情と、礼儀とを持って、しかも彼の如く猛烈に真理のために闘わねばならない。そのことたる、ひとえに心境の純潔にして疾ましからざると、真理への忠誠と熱情のみによって可能なことである。私は晩年の日蓮のやさしさに触れて、ますます往年の果敢な・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・椅子のある客間に坐りこむ、その礼儀も知らなかった。 二 病室には、汚れたキタならしい病衣の兵士たちが、窓の方に頭を向け、白い繃帯を巻いた四肢を毛布からはみ出して、ロシア兵が使っていた鉄のベッドに横たわっていた。凍傷・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体にシナを付けて、語音に礼儀の潤いを持たせて、奥様らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手で、褒めて云えば真率なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎先生・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫