・・・ ……煙草の煙、草花のにおい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う騒ぎの中に、一杯の麦酒を前にしながら、たった一人茫然と、卓に肘をついている。彼の周囲にあるものは、客も、給仕も、・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。……… その夜も三更に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・なんということもなく、父に対する反抗の気持ちが、押さえても押さえても湧き上がってきて、どうすることもできなかった。 ほど経てから内儀さんが恐る恐るやって来て、夕食のしたくができたからと言って来た。食慾は不思議になくなっていたけれども、彼・・・ 有島武郎 「親子」
・・・クララの眼にはあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。 一人の婢女を連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日は麗かに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私は始めから煮えていたが、エマソンによって沸きこぼれたまでの話だ」といっている。私はこのホイットマンの言葉を驕慢な言葉とは思わない。この時エマソンはホイットマンに向かって恩恵の主たることを自負しうるものだろうか。ホイットマンに詩人がいなかっ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・ 清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ迸るのであろう。 蒼蝿がブーンと来た。 そこへ…… 六 いかに、あの体では、蝶よりも蠅が集ろう……さし捨のおいらん草など塵塚へ運ぶ途中に似た・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ ……と言うとたちまち、天に可恐しき入道雲湧き、地に水論の修羅の巷の流れたように聞えるけれど、決して、そんな、物騒な沙汰ではない。 かかる折から、地方巡業の新劇団、女優を主とした帝都の有名なる大一座が、この土地に七日間の興行して、全・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・いつの間にそういう心持が起って居たか、自分には少しも判らなかったが、やはり母に叱られた頃から、僕の胸の中にも小さな恋の卵が幾個か湧きそめて居ったに違いない。僕の精神状態がいつの間にか変化してきたは、隠すことの出来ない事実である。この日初めて・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ない良縁と思う今度の縁談につき、意外にもおとよが強固に剛情な態度を示し、それも省作との関係によると見てとった父は、自分の希望と自分の仕合せとが、根柢より破壊せられたごとく、落胆と憤懣と慚愧と一時に胸に湧き返った。 さりとて怒ってばかりも・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・跡には草原の中に赤い泉が涌き出したように、血を流して、女学生の体が横わっている。 女房は走れるだけ走って、草臥れ切って草原のはずれの草の上に倒れた。余り駈けたので、体中の脈がぴんぴん打っている。そして耳には異様な囁きが聞える。「今血が出・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫