・・・僕は急にわくわくしながら、雨戸をあけに飛び起きて行った。実際庭は縁先からずっと広い池になっていた。けれどもそこにはKは勿論、誰も人かげは見えなかった。 僕はしばらく月の映った池の上を眺めていた。池は海草の流れているのを見ると、潮入りにな・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・しかしわたしの意識の外には、――わたしは巻煙草をふかしながら、妙にわくわくする心もちを抑え、モデルの来るのを待ち暮らした。けれども彼女は一時になっても、わたしの部屋を尋ねなかった。この彼女を待っている間はわたしにはかなり苦しかった。わたしは・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・は、いつもの通りその後で、帳場格子の後へ坐りましたが、さあここ二日の間に自分とお敏との運命がきまるのだと思うと、心細いともつかず、もどかしいともつかず、そうかと云って猶更また嬉しいともつかず、ただ妙にわくわくした心もちになって、帳面も算盤も・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・二人は妙にわくわくした心持ちになった。 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄な世界にクララの魂だ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・こう思うと気味が悪くて恐ろしくて、腹がわくわくする。省作はまた耳がほかほかしてきた。行かない方がえいなア。あアゆくまいゆくまい。こう口の底でいうて見る。ゆきたい心はかえって口底にも出てこず、行きたいなどとは決していわないが、その力は磐石糊の・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・見込みのあるものやら無いものやら、ただわくわくするのみである。こういううち、医者はどうして来ないかと叫ぶ。あおむけに寝かして心臓音を聞いてみた。素人ながらも、何ら生ある音を聞き得ない。水を吐いたかと聞けば、吐かないという。しかし腹に水のある・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・ 僕は何にも知らない風で、かの女の口をつぐませると、それまでわくわくしていたお貞が口を出し、「まア、えい。まア、えい。――子供同士の喧嘩です、先生、どうぞ悪しからず。――さア、吉弥、支度、支度」「厭だが、行ってやろうか」と、吉弥・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いまに落ちぶれやがるだろうと胸をわくわくさせて、この見通しの当るのを、待っていたのだ。案の定当った。ざまあ見ろ。 ところで、いま、おれが使った此の「今日ある」という言葉を、お前は随分気に入って、全国支店長総会なんかで、やたらに振りまわし・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 彼は胸をわくわくさせ乍ら、幾子のあとに随いて出た。「カスタニエン」の主人には十分もすれば帰ると言って出たが、もしかしたら、永久に帰って来ないかも知れない。 並んで心斎橋筋を北へ歩いて行った。「話て、どんな話や」「…………」・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
出典:青空文庫