・・・ちょうど昨日踏破したアルプスを見返えるナポレオンのように。 芥川竜之介 「十円札」
・・・日本アルプス横断中、一時行方不明になった第一高等学校の生徒三名は七日上高地の温泉へ着した。一行は穂高山と槍ヶ岳との間に途を失い、かつ過日の暴風雨に天幕糧食等を奪われたため、ほとんど死を覚悟していた。然るにどこからか黒犬が一匹、一行のさまよっ・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・「嬉しいですわ。」は、おかしい。この言葉づかいは、銀座あるきの紳士、学生、もっぱら映画の弁士などが、わざと粋がって「避暑に行ったです。」「アルプスへ上るです。」と使用するが、元来は訛である。恋われて――いやな言葉づかいだが――挨拶をするのに・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・しかして彼の頭脳にフト浮び出ましたことはアルプス産の小樅でありました。もしこれを移植したらばいかんと彼は思いました。しかしてこれを取り来りてノルウェー産の樅のあいだに植えましたときに、奇なるかな、両種の樅は相いならんで生長し、年を経るも枯れ・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ある日、彼はアルプス山の中を歩いていますと、いうにいわれぬいい景色のところがありました。そこには幾百人の土方や工夫が入っていて、昔からの大木をきり倒し、みごとな石をダイナマイトで打ち砕いて、その後から鉄道を敷いておりました。そこで少年は、袋・・・ 小川未明 「眠い町」
・・・ それは西暦千八百六十五年の七月の十三日の午前五時半にツェルマットという処から出発して、名高いアルプスのマッターホルンを世界始まって以来最初に征服致しましょうと心ざし、その翌十四日の夜明前から骨を折って、そうして午後一時四十分に頂上・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・飛騨境の方にある日本アルプスの連山にはまだ遠く白雪を望んだが、高瀬は一つ場処に長く立ってその眺望を楽もうともしなかった。不思議な寂寞は蛙の鳴く谷底の方から匍い上って来た。恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。「父・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・自己の中に、アルプスの嶮にまさる難所があって、それを征服するのに懸命です。僕たちは、それを為しとげた人を個人英雄という言葉で呼んで、ナポレオンよりも尊敬して居ります。」 来た。待っていたものが来た。新しい、全く新しい次のジェネレーション・・・ 太宰治 「花燭」
・・・南アルプス連峰も、富士山も、何も見えない。朝露で、下駄がびしょぬれである。私はいっそうひどい猫背になって、のろのろ帰途についた。橋を渡り、中学校のまえまで来て、振り向くとポチが、ちゃんといた。面目なげに、首を垂れ、私の視線をそっとそらした。・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙を思うよ。 一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。「なんじを訴うる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐くは、訴うる者なんじを審判人にわたし、審判人は下役・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫