・・・何か大きい10の上に細かいインクの楽書もある。彼は静かに十円札を取り上げ、口の中にその文字を読み下した。「ヤスケニシヨウカ」 保吉は十円札を膝の上へ返した。それから庭先の夕明りの中へ長ながと巻煙草の煙を出した。この一枚の十円札もこう・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・けれどもインクをつけたペンはいつまでたっても動かなかった。のみならずやっと動いたと思うと、同じ言葉ばかり書きつづけていた。All right……All right……All right sir……All right…… そこへ突然鳴り出・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・大きなのやら小さなのやら、みかげ石のまばゆいばかりに日に反射したのやら、赤みを帯びたインク壺のような形のやら、直八面体の角ばったのやら、ゆがんだ球のようなまるいのやら、立体の数をつくしたような石が、雑然と狭い渓谷の急な斜面に充たされている。・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・ あなたから長いお手紙をいただき、ただ、こいつあいかんという気持で鞄に、ペン、インク、原稿用紙、辞典、聖書などを詰め込んで、懐中には五十円、それでも二度ほど紙幣の枚数を調べてみて、ひとり首肯き、あたふたと上野駅に駈け込んで、どもりながら・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・いまの私の身分には、これ位の待遇が、相応しているのかも知れない、と無理矢理、自分に思い込ませて、トランクの底からペン、インク、原稿用紙などを取り出した。 十年ぶりの余裕は、このような結果であった。けれども、この悲しさも、私の宿命の中に規・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・その晩、あなたに、強くなってもらいたく、あなたの純潔信じて居るものの在ることお知らせしたく、あなたに自信もって生きてもらいたくて、ただ、それだけの理由で、おたよりしようと、インク瓶のキルクのくち抜いて、つまずいた。福田蘭童、あの人、こんな手・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・その緑色の風呂敷で、覆われて在る電燈の光が、部屋をやわらかく湿して、私の机も、火鉢も、インク瓶も、灰皿も、ひっそり休んでいて、私はそれらを、意地わるく冷淡に眺め渡して、へんに味気なく、煙草でも吸おうか、と蒲団に腹這いになりかけたら、また足も・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・鞄には原稿用紙とペン、インク、悪の華、新約聖書、戦争と平和第一巻、その他がいれられて在る。温泉宿の一室に於いて、床柱を背負って泰然とおさまり、机の上には原稿用紙をひろげ、もの憂げに煙草のけむりの行末を眺め、長髪を掻き上げて、軽く咳ばらいする・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・唄いながら、原稿用紙の塵を吹き払い、Gペンにたっぷりインクを含ませて、だらだらと書きはじめた。頗る態度が悪いのである。 ――あきらめを知らぬ、本能的な女性は、つねに悲劇を起します。という初枝女史の暗示も、ここに於いて多少の混乱に逢着した・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・水がこぼこぼ裂目のところで泡を吹きながらインクのようにゆっくりゆっくりひろがっていったのだ。 水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年続いた記録が無い・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫