・・・あの鼠色の寐惚けたような目を見ては、今起きて出た、くちゃくちゃになった寝牀を想い浮べずにはいられない。あのジャケツの胸を見ては、あの下に乳房がどんな輪廓をしているということに思い及ばずにはいられない。そんな工合に、目や胸を見たり、金色の髪の・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・値をきくと、指を一本出したので、煙草の五円に較べれば一皿一円のカレーライスは廉いと思い、十円札を出すと、しかし釣は呉れず、黒いジャケツを着たひどい訛の大男が洋食皿の上へ普通の五倍も大きなスプーンを下向きに載せて、その上へ白い飯を盛り、カレー・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 傾斜面に倒れた縁なし帽や、ジャケツのあとから、また、ほかの汚れた短衣やキャラコの室内服の女や子供達が煙の下からつづいて息せき現れてきた。銃口は、また、その方へ向けられた。パッと硝煙が上った。子供がセルロイドの人形のように坂の芝生の上に・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・扣鈕を掛けたジャケツの下で、男等の筋肉が、見る見る為事の恋しさに張って来る、顫えて来る。目は今までよりも広くかれて輝いている。「ええ。あの仲間へ這入ってこの腕を上げ下げして、こちとらの手足の中にある力を鉄の上に加えて見たい。あの目の下に見え・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・見ると、木戸にいる時と同様、紺の股引にジャケツという風采であった。「なには? あの、店のほうは?」私は気がかりになったので尋ねた。「ちょっといま、休ませて来ました。」ドンジャンの鐘太鼓も聞えず、物売りの声と参詣人の下駄の足音だけが風・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい塗下駄をはいていた。僕が玄関へ出て行くとすぐに、「ああ。やっとお引越しがおわりましたよ。こんな恰好でおかしいでしょう?」 それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・レンコオトも帽子もなく、天鵞絨のズボンに水色の毛糸のジャケツを着けたきりで、顔は雨に濡れて、月のように青く光った不思議な頬の色であった。夜光虫は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるようにへたへたと部屋の隅に寝そべった。「かんにんして呉・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・私は女学校時代のつぎはぎだらけのスカートに、それからやはり昔スキーの時に着た黄色いジャケツ。此のジャケツは、もうすっかり小さくなって、両腕が肘ちかく迄にょっきり出るのです。袖口はほころびて、毛糸が垂れさがって、まず申し分のない代物なのです。・・・ 太宰治 「恥」
・・・緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作に桃色リボンに束ねている。丸く肥った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかすのある頬のあたりにはまだらに白粉の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌を浮かべて媚びるようなしなを作り・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・その下には襦袢の代りに、よごれたトリコオのジャケツを着込んでいる。控鈕をはずしてから、一本腕は今一本の腕を露した。この男は自分の目的を遂げるために必要な時だけ、一本腕になっているのである。さて露した腕を、それまでぶらりと垂れていた片袖に通し・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫