・・・ 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。 風に吹きつけられた雪が、窓硝子を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・二人はいつの間にか腹立て怒って大切なズボンやワイシャツが汗と土で汚れるのも忘れて、無暗に豚をぶん殴りだした。 豚は呻き騒ぎながら、彼等が追いかえそうと努めているのとは反対に、小屋から遠い野良の方へ猛獣の行軍のようになだれよった。 と・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ 龍介はズボンに手をつっこみ、小さい冷えきった室の中を歩いた。彼はこういう所に一人で来たこれが初めだった。来たい意思はいつでも持った。夜床の中で眼をさますと、何かの拍子から「いても立ってもいられない」衝動を感ずることがあった。そうすると・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・窓に倚りかかり、庭を見下せば、無花果の樹蔭で、何事も無さそうに妹さんが佐吉さんのズボンやら、私のシャツやらを洗濯して居ました。「さいちゃん。お祭を見に行ったらいい。」 と私が大声で話しかけると、さいちゃんは振り向いて笑い、「私は・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 中学校へはいってからは、校規のきびしい学校でしたので、おしゃれも仲々むずかしく、やけくそになって、ズボンの寝押しも怠り、靴も磨かず、胴乱をだらんとさげて、わざと猫背になって歩きました。そのときの猫背が癖になって、十五年のちの、いまにな・・・ 太宰治 「おしゃれ童子」
・・・その証拠には、街頭を歩いているラッパズボンのボーイらが店頭からもれ出るジャズレコードの音を聞けば必ず安物の器械人形のように踊りだす。それだからこれは野蛮民の戦争踊りが野蛮民に訴えると同じ意味において最高の芸術でなければならないのである。これ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ おかっぱに洋装の女の子もあれば、ズボンにワイシャツ、それに下駄ばきの帳場の若い男もある。それが浴衣がけの頬かぶりの浴客や、宿の女中たちの間に交じって踊っている不思議な光景は、自分たちのもっている昔からの盆踊りというものの概念にかなりな・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・夏冬ともシャツにズボンをはいているばかり。何をしていたものの成れの果やら、知ろうとする人も、聞こうとする人も無論なかったが、さして品のわるい顔立ではなかったので、ごろつきでも遊び人でもなく、案外堅気の商人であったのかも知れない。 オペラ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋灯の穂を細めながら尋ねた。 津田君がこう云った時、余ははち切れて膝頭の出そうなズボンの上で、相馬焼の茶碗の糸底を三本指でぐるぐる廻しながら考えた。なるほど珍ら・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・例えば椅子の足の折れかかったのに腰をかけて uneasy であるとか、ズボン釣りを忘れたためズボンが擦り落ちそうで uneasy であるとか、すべて落ちつかぬ様子であります。もちろん落ちつかぬ様子と云うのは、ある時間の経過を含む状態には相違・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫