・・・ 髪は勿論銀杏返し、なりは薄青い縞のセルに、何か更紗の帯だったかと思う、とにかく花柳小説の挿絵のような、楚々たる女が立っているんだ。するとその女が、――どうしたと思う? 僕の顔をちらりと見るなり、正に嫣然と一笑したんだ。おやと思ったが間に合・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・その途端に障子が明くと、頸に湿布を巻いた姉のお絹が、まだセルのコオトも脱がず、果物の籠を下げてはいって来た。「おや、お出でなさい。」「降りますのによくまた、――」 そう云う言葉が、ほとんど同時に、叔母と神山との口から出た。お絹は・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・保吉のセルの膝の上に載った一枚の十円札にも漂っている。彼はその夕明りの中にしみじみこの折目のついた十円札へ目を落した。鼠色の唐艸や十六菊の中に朱の印を押した十円札は不思議にも美しい紙幣である。楕円形の中の肖像も愚鈍の相は帯びているにもせよ、・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・驚いた事には、僕の知っている英吉利人さえ、紋附にセルの袴で、扇を前に控えている。Kの如き町家の子弟が結城紬の二枚襲か何かで、納まっていたのは云うまでもない。僕は、この二人の友人に挨拶をして、座につく時に、いささか、tranger の感があっ・・・ 芥川竜之介 「野呂松人形」
・・・ 紺のあつしをセルの前垂れで合せて、樫の角火鉢の横座に坐った男が眉をしかめながらこう怒鳴った。人間の顔――殊にどこか自分より上手な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐れるのだった。刃に歯向う獣のように捨鉢になって彼れはのさのさと図抜けて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・薄地セルの華奢な背広を着た太った姿が、血みどろになって倒れて居るのを、二人の水夫が茫然立って見て居た。 私の心にはイフヒムが急に拡大して考えられた。どんな大活動が演ぜられるかと待ち設けた私の期待は、背負投げを喰わされた気味であったが、き・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・そうは資本が続かないからと、政治家は、セルの着流しです。そのかわり、この方は山高帽子で――おやおや忘れた――鉄無地の旦那に被せる帽子を。……そこで、小僧のを脱がせて、鳥打帽です。 ――覚えていますが、その時、ちゃら金が、ご新姐に、手づく・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・新裁下しのセルの単衣に大巾縮緬の兵児帯をグルグル巻きつけたこの頃のYの服装は玄関番の書生としては分に過ぎていた。奥さんから貰ったと自慢そうに見せた繍いつぶしの紙入も書生にくれる品じゃない。疑えば疑われる事もまるきりないじゃなかったが、あのモ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・丁度同じ頃、その頃流行った黒無地のセルに三紋を平縫いにした単羽織を能く着ていたので、「大分渋いものを拵えたネ、」と褒めると、「この位なものは知ってるサ、」と頗る得々としていた。四 俗曲趣味 二葉亭は江戸ッ子肌であった。あの厳・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・七日目はセルの着物に下駄ばきで来た。洋服を質入れしたのだ。 そして八日目の今日は淀の最終日であった。これだけは手離すまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾をくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してし・・・ 織田作之助 「競馬」
出典:青空文庫