・・・杉浦は実に能弁の人であった。トランクなどをさげて、夜おそく勝治の家の玄関に現れ、「どうも、また、僕の身辺が危険になって来たようだ。誰かに尾行されているような気もするから、君、ちょっと、家のまわりを探ってみて来てくれないか。」と声をひそめて言・・・ 太宰治 「花火」
・・・「小型のトランクひとつ。二時にもう五分しかないという、危いところで、ふと、うしろを振りかえる。」「女は笑いながら立っている。」「いや、笑っていない。まじめな顔をしている。おそくなりまして、と小声でわびる。」「君のトランクを、・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・あるいは室内のトランクが汽車の網棚のトランクに移り変わるような種類である。ところが、連句ではこれに似たことがしばしば行なわれる。たとえば「僧やや寒く寺に帰るか」「猿引きの猿と世を経る秋の月」では僧の姿が猿引きの猿にオーバーラップ的に推移する・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・我輩のトランクと書籍は今朝三時頃主人が新宅へ運んでしまったので、残るのは身体ばかりだ。何となく寂漠の感がある。夜の八時頃にコツコツ戸を叩いて這入って来た――例のペンが――今日差配人が四度来たという注進だ。それから何かいうが少しも解しかねる。・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・私はそのあとからひとり空虚のトランクを持って歩きました。一時間半ばかり行ったとき、私たちは海に沿った一つの峠の頂上に来ました。「もうヒルテイの村が見える筈です。」団長の地学博士が私の前に来て、地図を見ながら英語で云いました。私たちは向う・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・ 日本の軍人が、トランクや荷物の底に、価でない価で「買った」ジャワ更紗を日本に流行させたことを、わたしたちは決して忘れないだろうと思う。 インド更紗の美しさも世界にしられている。この立派な技術をもち美しい芸術的な生産をするインド婦人・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ この間の邦語訳の椿姫の歌うなかに、この受取りを御覧下さいということばがあったが、それが日本語で歌われるといかにも現実感がありましたが、昨今ではそのうたをうたうプリマドンナの腕も、ステイジ用のトランク運びで逞しくなるとは面白い世の中・・・ 宮本百合子 「裏毛皮は無し」
・・・ 勿論我々のトランクの中に そのデリケートにして白い東方の食料品は入れられてない。自分は青葱入のオムレツをたべて恢復した。零下十五度のモスクで牝鶏は卵を生まない。――から木箱に入った卵が来る。 一年目に又病って、今思い出すものは日本・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・何しろそれはイギリスから父が送ってくれた大小三つの赤トランクであったから。金属製で外側はイギリス好みの濃い赤でぬられているところへ、茶色エナメルでがんじょうな〆皮と金ピカの留金とがついている。それはただ平ったい上に描かれているのではなかった・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 午前中本箱や夜具、トランク類を、石井の荷物自動車にのせ、英男が面白がって後につかまって送って行った。大工、善さん、おまつ等がAに手伝い、略、片がついたと思う頃、自分は俥で出かけた。 始めて出来た自分等の家に行くのだけれども、母上に・・・ 宮本百合子 「小さき家の生活」
出典:青空文庫