離れで電話をかけて、皺くちゃになったフロックの袖を気にしながら、玄関へ来ると、誰もいない。客間をのぞいたら、奥さんが誰だか黒の紋付を着た人と話していた。が、そこと書斎との堺には、さっきまで柩の後ろに立ててあった、白い屏風が・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・これのみならず玄関より外科室、外科室より二階なる病室に通うあいだの長き廊下には、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、ある・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・釦の多いフロックコートを着たようである。しかし、少し動いてもすぐ脱れそうで不安であった。―― 何よりも母に、自分の方のことは包み隠して、気強く突きかかって行った。そのことが、夢のなかのことながら、彼には応えた。 女を買うということが・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・それが済むと怪しげな名前の印度人が不作法なフロックコートを着て出て来た。何かわからない言葉で喋った。唾液をとばしている様子で、褪めた唇の両端に白く唾がたまっていた。「なんて言ったの」姉がこんなに訊いた。すると隣のよその人も彼の顔を見た。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・家の門のところに、フロック着たへんなおじいさん立っています。」 兄妹五人、ぎょっとして立ち上った。 母は、ひとり笑い崩れた。 太宰治 「愛と美について」
・・・それからあのいつもの漆喰細工の大玄関をはいってそこにフロックコートに襟章でも付けた文部省の人々の顔に逢着するとまた一種の官庁気分といったようなものも呼び出される。尤もこんな事は美術とは何の関係もない事ではあるが、それでも感受性の鋭い型の観覧・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・冬向きにこしらえた一ちょうらのフロックがひどく暑苦しく思われたことを思い出すことができる。 会堂内で葬式のプログラムの進行中に、突然堂の一隅から鋭いソプラノの独唱の声が飛び出したので、こういう儀式に立ち会った経験をもたない自分はかなりび・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・ ヘルマン教授は胡麻塩の長髪を後ろへ撫でつけていて、いつも七つ下がりのフロックを着ていたが、講義の言語はこの先生がいちばん分りやすくて楽であった。自由に図書室へ出入りすることを許されたが図書室の中はいつ行ってみても誰もいないでひっそりし・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・高原君は御覧の通りフロックコートを着ておりましたが、私はこの通り背広で御免蒙るような訳で、御話の面白さもまたこの服装の相違くらい懸隔しているかも知れませんから、まずその辺のところと思って辛抱してお聴きを願います。高原君はしきりに聴衆諸君に向・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・こうやって演壇に立って、フロックコートも着ず、妙な神戸辺の商館の手代が着るような背広などを着てひょこひょこしていては安っぽくていけない。ウンあんな奴かという気が起るにきまっている。が駕籠の時代ならそうまで器量を下げずにすんだかも知れない。交・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
出典:青空文庫