・・・彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真をかくすことも忘れて、呼ばれるままに事務室へ這入って行った。 ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 松木は、防寒靴をはき、ズボンのポケットに両手を突きこんで、炊事場の入口に立っていた。 風に吹きつけられた雪が、窓硝子を押し破りそうに積りかかっていた。谷間の泉から湧き出る水は、その周囲に凍てついて、氷の岩が出来ていた。それが、丁度・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・立たせたし、また他の一人の鍔無しの平たい毛織帽子に、鼠甲斐絹のパッチで尻端折、薄いノメリの駒下駄穿きという姿も、妙な洒落からであって、後輩の自分が枯草色の半毛織の猟服――その頃銃猟をしていたので――のポケットに肩から吊った二合瓶を入れている・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・ 龍介はポケットに手をつっこんだままちょっと立ち止まった。その時汽笛が聞えた。それで彼はホッとした気持を感じた。彼は線路を越して歩きだした。後で踏切りの柵の降りる音がして、地響が聞えてきた。 龍介は図書館にいるTを訪ねてみようと思っ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・彼は学校通いの洋服のポケットから田舎風な皮の提げ煙草入を取出した。都会の方から来た頃から見ると、髪なども長く延ばし、憂鬱な眼付をして、好きな煙草を燻し燻し学士の話に耳を傾けた。「どうでしょう、高瀬君、今度塾へ御願いしました伜の奴は。あれ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・では、今日こそは、あの金の窓の家へいって見ようと思って、お母さまから、パンを一きれもらって、それをポケットにおしこんで出ていきました。 男の子にはたのしい遠足でした。はだしのまま歩いていくと、往来の白いほこりの上に足のあとがつきました。・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・けれども、大学生は、レインコオトのポケットに両手をつっこんだまま、さっさと歩いた。女は、その大学生の怒った肩に、おのれの丸いやわらかな肩をこすりつけるようにしながら男の後を追った。 大学生は、頭がよかった。女の発情を察知していた。歩きな・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・しまったのを、あのひとが土間の椅子席でひとりで酒を飲みながらそれを見ていたらしく、急に立ってつかつかと六畳間にあがって、無言で女房を押しのけ引出しをあけ、その五千円の札束をわしづかみにして二重まわしのポケットにねじ込み、私どもがあっけにとら・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・という顔をして、そのままポケットに収めた。 「何時です?」 「二時十五分」 二人は黙って立っている。 苦痛がまた押し寄せてきた。唸り声、叫び声が堪え難い悲鳴に続く。 「気の毒だナ」 「ほんとうにかわいそうです。どこの・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫