・・・ ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝・・・ 有島武郎 「親子」
お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、――その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが――父の書き残したものを繰拡げて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・七左、程もあらせず、銚子を引攫んで載せたるままに、一人前の膳を両手に捧げて、ぬい、と出づ。村越 (呆れたる状小父さん、小父さん、どうなすった……どうなさるんです。おいくさん、お前粗相をしやしないかい。七左 (呵々はッはッ・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ 隣から三人、家のものが五人、都合八人だが、兄は稲を揚げる方へ回るから刈り手は七人、一人で五百把ずつ刈れば三千五百刈れるはずだけれど、省作とおはまはまだ一人前は刈れない。二人は四百把ずつ刈れと言い渡される。省作は六尺大の男がおはまと組む・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 言いかえれば、赤井、白崎の二人は、浪花節、逆立ちを或いは上手に或いは下手に隊長の前でやって見せると共に、外出時間を貰って、鶏、牛肉、魚などの徴発をして来なければ、一人前の兵隊とは言えない、というわけである。 その日、隊長は鶏のスキ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・それに、お前、お前はまだこの村で一戸前も持っとらず、一人前の税金も納めとらんのじゃぞ。子供を学校へやって生意気にするよりや、税金を一人前納めるのが肝心じゃ。その方が国の為めじゃ。」と小川は、ゆっくり言葉を切って、じろりと源作を見た。 源・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・彼は、一人前の男となっていた。 村には娘達がS町やK市へ吸い取られるように、次々に家を出て、丁度いゝ年恰好の女は二三人しかいなかった。町へ出た娘の中に虹吉が真面目に妻としたいと思った女が、一人か二人はあったかもしれない。しかし、町へ行っ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ そのうちにまたいつとなく三毛の生活は以前のように平静になったが、その時にはもう今までの子猫ではなくて立派に一人前の「母」になっていた。 いつも出入りする障子の穴が、彼女のためには日ごとに狭くなって行くのであった。出入りのたびごとに・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・四月二十二日 夜九時から甲板で音楽会をやった。一人前五十ペンスずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだという。 英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥ったそしてあまり品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると、その歌はだれで・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・「御飯も持ってきてね、一人前」 それからまた台所の方にいたかと思うと、道太が間もなく何か取りかたがた襦袢を著に二階へあがったころには、お絹は床をあげて、彼の脱ぎ棄ての始末をしていた。「ここもいいけれど、昼間は少し暗い」道太はそう・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫