・・・予は一刻も早く此に居る苦痛を脱したく思うのだが、今日昼前に渋川がくるかも知れないと思うままに、今暫くと思いながら、心にもない事を云ってる。こんな時に画幅など見たって何の興味があろう。岡村が持って来た清朝人の画を三幅程見たがつまらぬものばかり・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・また、出なくて家にいてもいゝのに、外へ出たり、また、それ程、物資に欠乏していないのにかゝわらず、物資をその上にも輸送し、輸入するために、トラックを走らせたり、すべてが、必然に迫っていないにかゝわらず、一刻を争ったりしているように、その多くが・・・ 小川未明 「街を行くまゝに感ず」
・・・どうか、せっかく使いにまいった私の顔をたてて、あの馬車に乗って、一刻も早く大尽の御殿へいらしてください。いまごろ大尽は、あなたの見えるのをお待ちでございます。」と、男はいいました。 あちらに、草の上にすわって、手に笛を持っておとなしく、・・・ 小川未明 「港に着いた黒んぼ」
・・・ もし、はやらなければ、宿賃の払いも心細い……と、口には出さなかったが、ぎろりとした眼を見張ってから一刻、ひょいと会場の窓から村道の方を覗くと、三々伍々ぞろぞろ歩いて来る連中の姿が眼にはいり、あ、宣伝が利いたらしいとむしろ狼狽した。・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ 道子が姉のもとへ帰ってから、もう半年以上にもなるが、つひぞ音が黄昏の中に消えて行くのを聴いていた。 一刻ごとに暗さの増して行くのがわかる晩秋の黄昏だった。 やがて、その人が駅の改札口をはいって行くその広い肩幅をひそかに見送って・・・ 織田作之助 「旅への誘い」
・・・ 彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はなんだか彼の脳裏にこびりついてきた。 やがて、門の方で、ぱきぱきした下駄の音がした。「帰ったな。」と清吉は考えた。 彼は一刻も早く妻の顔を見たかった。彼女の顔色によっ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・という事をあえてしにくいので、自分が一刻も早く面白くない家を出てしまって世間へ飛び出したいという意からは、お浪親子の親切を嬉しいとは思いながら難有迷惑に思う気味もあるほどである。もちろんお浪親子がいかに一本路を見張っているにしても、その眼を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ 朝に言い出し、お昼にはもう出発ということになりました。一刻も早く、家から出て行きたい様子でしたが、炎天つづきの東京にめずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔・・・ 太宰治 「おさん」
・・・群集は、刻一刻とその数を増し、あの人の通る道々に、赤、青、黄、色とりどりの彼等の着物をほうり投げ、あるいは棕櫚の枝を伐って、その行く道に敷きつめてあげて、歓呼にどよめき迎えるのでした。かつ前にゆき、あとに従い、右から、左から、まつわりつくよ・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・ 嵐は雨を添えて刻一刻につのる。波音は次第に近くなる。 室へ帰る時、二階へ通う梯子段の下の土間を通ったら、鳥屋の中で鷄がカサコソとまだ寝付かれぬらしく、ククーと淋しげに鳴いていた。床の中へもぐり込んで聞くと、松の梢か垣根の竹か、長く・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫