・・・あれはいつだったっけ、何でも俺が船へ乗り込む二三日前だった、お前のところへ暇乞いに行ったら、お前の父が恐ろしく景気つけてくれて、そら、白痘痕のある何とかいう清元の師匠が来るやら、夜一夜大騒ぎをやらかしたあげく、父がしまいにステテコを踊り出し・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・時々人のいない所でカツラを取って何時間も掛って埃を払っている――そんな姿を見ると、つくづく嫌気がさして来たある夜、どう魔がさしたのかポン引に誘われて一夜女を買った。ところが、その女はそんな所の女とは思えないくらい美人で、金で売り乍ら自分から・・・ 織田作之助 「世相」
・・・そして下宿へも帰れずに公園の中をうろついているとか、またはケチな一夜の歓楽を買おうなどと寒い夜更けに俥にも乗れずに歩いている時とか、そういったような時に、よくその亡霊に出会したというのであった。「……そんな場合の予感はあるね。変にこう身・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・吉田はその話を聞いてから自分の睡むれないときには何か自分に睡むるのを欲しない気持がありはしないかと思って一夜それを検査してみるのだったが、今自分が寐られないということについては検査してみるまでもなく吉田にはそれがわかっていた。しかし自分がそ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・行く末のかれが大望は霧のかなたに立ちておぼろながら確かにかれの心を惹き、恋は霧のごとく大望を包みて静かにかれの眼前に立ちふさがり、かれは迷いつ、怒りつ、悲哀と激昂とにて一夜を明かせり。明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔真っ蒼・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい! だが、どこまで行っても雪ばかりだ。…… 最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。 松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・こし方行末おもい続けてうつらうつらと一夜をあかしぬ。 十三日、明けて糠くさき飯ろくにも喰わず、脚半はきて走り出づ。清水川という村よりまたまた野辺地まで海岸なり、野辺地の本町といえるは、御影石にやあらん幅三尺ばかりなるを三四丁の間敷き連ね・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畠に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い、静かな田舎に身を置き得たという心・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」「これだからねえ」 と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。 その頃になると、私が大谷という詩人の女房だとい・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈はひとりでに綺麗に消滅した。 病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 しかし病気はそれだけではなかった。第一の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫