・・・またあるところでは溪の闇へ向かって一心に石を投げた。闇のなかには一本の柚の木があったのである。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚の匂いが立ち騰って来た。 こうしたことは療養地の身を噛むような孤独と切り・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・竿を手にして、一心に魚のシメ込を候った。魚は式の如くにやがて喰総めた。こっちは合せた。むこうは抵抗した。竿は月の如くになった。綸は鉄線の如くになった。水面に小波は立った。次いでまた水の綾が乱れた。しかし終に魚は狂い疲れた。その白い平を見せる・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・結構のサロンに集い、一人一題、世にも幸福の物語を囁き交わさむとの御趣旨、ちかごろ聞かぬ御卓見、私たのまれもせぬに御一同に代り、あらためて主催者側へお礼を申し、合せてこの会、以後休みなくひらかれますよう一心に希望して居ることを言い添え、それで・・・ 太宰治 「喝采」
・・・私は緊張した。 車中の乗客たちの会話に耳をすました。わからない。異様に強いアクセントである。私は一心に耳を澄ました。少しずつわかって来た。少しわかりかけたら、あとはドライアイスが液体を素通りして、いきなり濛々と蒸発するみたいに見事な速度・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・ 私たちは、三鷹の家主からの速達を一心に待っていた。七月末には、できるでしょうという家主の言葉であったのだが、七月もそろそろおしまいになりかけて、きょうか明日かと、引越しの荷物もまとめてしまって待機していたのであったが、なかなか、通知が・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・こんな事なら、いっそ、綴方でも小説でも、一心に勉強して、母を喜ばせてあげたいとさえ思いましたが、私は、だめなのです。もう、ちっとも何も書けないのです。文才とやらいうものは、はじめから無かったのです。雪の降る形容だって、沢田先生のほうが、きっ・・・ 太宰治 「千代女」
・・・ただ一心に何事かに凝り固まって世間の風が何処を吹くのも知る余裕がないといったようである。自分はこんな場合を見かけるとなんだか可笑しくもありまた気の毒な気がした。黒田はあれはこの世界に金を溜める以外何物もない憐れな男だと言っていた。五厘だけ安・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 傍聴者は、みんな非常に真面目に黙って一心に下を覗き込んでいた。そういう人達の顔を見ると、下にはかなり真面目な重大な事柄が進行しているという事が分るような気がした。 入口を這入る時から、下の方で何だか恐ろしく大きな声で咆哮している人・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・ 台所から出て来た細君は彼が一心に手跡を見比べているのを見て、じれったがって、こう言った。「手紙のほうが小包よりさきに来そうなものだが。」「だって、そりゃあ、……あとから来る事だってあるじゃありませんか。」「……この『様』の・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・なるほど要太郎は一心に田の中の一点を凝視めてその点のまわりを小股に走りながらまわっている。網の竿をのばしたと思うと急に足を早めて網を投げた。黒いものが立つと思うと網にかかった。バタ/\している。要太郎も走る。精も走る。綺麗な鴫だ。ドレドレと・・・ 寺田寅彦 「鴫つき」
出典:青空文庫