俊寛云いけるは……神明外になし。唯我等が一念なり。……唯仏法を修行して、今度生死を出で給うべし。源平盛衰記いとど思いの深くなれば、かくぞ思いつづけける。「見せばやな我を思わぬ友もがな磯のとまやの柴の庵を。」同上一・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・「さあね、それがね、恥かしさと死ぬ気の、一念で、突き破ったんでしょうか。細い身体なら抜けられるくらい古壁は落ちていたそうですけれど、手も浄めずに出たなんぞって、そんなのは、お藻代さんの身に取って私は可厭。……それだとどこで遺書が出来ます・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・むしろ抑えているだけ思いはかえって深くなる。一念深く省作を思うの情は増すことはあるとも減ることはない。話し合いで別れて、得心して妻を持たせながら、なおその男を思っているのは理屈に合わない。いくら理屈に合わなくとも、そういかないのが人間のあた・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・と脇腹を刺通すと苦しい声をあげて「汝、此のうらみの一念、この幾倍にもしてかえすだろう、口惜い口惜い」と云う息の段々弱って沢の所にたおれたのを押えて止をさし死がいを浮藁の下にしずめそうっと家にかえったけれ共世間にはこんな事を知って居る人は一人・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・敵は五六千メートルも隔ってるのに、目の前へでも来とる様に見えて、大砲の弾丸があたまの上で破裂しても、よそごとの様に思われ、向うの手にかかって死ぬくらいなら、こッちゃから死ぬまで戦ってやる云う一念に、皆血まなこになっとるんや。かすり傷ぐらい受・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩得涅槃」の両聯・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・このとき、横あいから前に出た老人があったが、ふいのことであり、彼は、この老人を傷つけまいとの一念から、とっさにハンドルをまわしたので、おりから疾走してきた自動車に触れて、はねとばされたのでした。 彼は、直ちに病院へかつぎ込まれました。傷・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・「生きたい、一念で、逃げ出してきたのでしょう。」と、お母さんも、おっしゃいました。「ワン、ワン、ほえたり、かみついたりしたんだろうな。」と、正ちゃんが、いうと、「ばか、そんなことをすれば、すぐなぐり殺されてしまうじゃないか。」と・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・佳い心持になって、自分は暫時くじっとしていたが、突然、そうだ自分もチョークで画いて見よう、そうだという一念に打たれたので、そのまま飛び起き急いで宅に帰えり、父の許を得て、直ぐチョークを買い整え画板を提げ直ぐまた外に飛び出した。 この時ま・・・ 国木田独歩 「画の悲み」
・・・『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念が電のように僕の心中最も暗き底に閃いたと思うと僕は思わず躍り上がりました。そして其所らを夢中で往きつ返りつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫