・・・それも何のためかと云えば、元に還って考えて見ると、つまりは、うまく生きて行こうの一念に、この分化を促されたに過ぎないのであります。ある一種の意識連続を自由に得んがためにあらかじめ意識の範囲を広くすると云う意味にほかならんのであります。私共は・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・されば今、私権を保護するは全く法律上の事にして、徳義には縁なきものの如くに見ゆれども、元これを保護せんとするの思想は、円満無欠なる我が身に疵つくるを嫌うの一念より生ずるものなれば、いやしくも内に自ら省みて疚しきものあるにおいては、その思想の・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・深い事だと気が付いた、そこで直様善光寺へ駈けつけて、段々今までの罪を懺悔した上で、どうか人間に生れたいと願うた、七日七夜、椽の下でお通夜して、今日満願というその夜に、小い阿弥陀様が犬の枕上に立たれて、一念発起の功徳に汝が願い叶え得さすべし、・・・ 正岡子規 「犬」
・・・この時、疾翔大力は、上よりこれをながめられあまりのことにしばしは途方にくれなされたが、日ごろの恩を報ずるは、ただこの時と勇みたち、つかれた羽をうちのばし、はるか遠くの林まで、親子の食をたずねたげな。一念天に届いたか、ある大林のその中に、名さ・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
・・・ この時勢を生きるための作家の心構えなど、いまの私には聰明ぶって説き立てる勇気はないが、私にはこう云う時勢の中で、作家にとって最も大切なものは、執拗な凝視であると強調したい一念を抑え難い。」 日本文学のなかでたとえそれがどんな形で経・・・ 宮本百合子 「作家に語りかける言葉」
・・・「思いつめるということが、よい方面に向えば勢い熱情となり立派な仕事をなしとげるのですが、一つあやまてば、人をのろう怨霊の化身となる――女の一念もゆき方によっては非常によい結果と、その反対の悪い結果を来すものです」 女学生への訓話・・・ 宮本百合子 「「青眉抄」について」
・・・実際聴きわける耳もないのに謡と思うとああいう風に気を張るのかと思うと、暗い一念、という印象が強く私に遺されていた。先ず本ものの謡がきかされてよかった。 腸の方は、少しずつよい方に向い、祖母は甘酒を頻りに啜った。食慾は余りつかない。そのう・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・敵が憎いと云う一念で、胆汁が霊にまで滲みこんでいたと見える。ところが今日の美味さ! 本当の別製だ。どうか自分の同胞たちを救けたいとか、親や妻子、良人ばかりは生かせたいとか、奇妙な願いに充ちているので、さながら甘露の味いがする。ヴィンダー・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・ どんなことをしても書くことだけは捨てまいとする作者の一念こった心持が理解されるために、私には一層この率直にかかれた随筆の内容が文学修業一般の根本的な問題にもふれて、多くの感想を呼びさました。「白道」によると作者は、書くことをすてま・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
・・・恋の怨みに世を去り、悲痛なる反抗心に死する人が世に遺す凄き呪い。一念の凝った生き霊。藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫