・・・現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明りを揺かしている川波の空に、一反り反った一文字を黒々とひき渡して、その上を通る車馬の影が、早くも水靄にぼやけた中には、目まぐるしく行き交う・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・保吉はその中を一文字に敵の大将へ飛びかかった。敵の大将は身を躱すと、一散に陣地へ逃げこもうとした。保吉はそれへ追いすがった。と思うと石に躓いたのか、仰向けにそこへ転んでしまった。同時にまた勇ましい空想も石鹸玉のように消えてしまった。もう彼は・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。 杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静に星を眺めていました。するとかれこれ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ一文字に舞い上ったのは、今度も黒天鵞絨の翅の上に、青い粉を刷いたような、一対の烏羽揚羽なのです。その時は気のせいか、額へ羽搏った蝶の形が、冷やかに澄んだ夕暮の空気を、烏ほ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・昔、唐のある学者が眉の上に瘤が出来て、痒うてたまらなんだ事があるが、ある日一天俄に掻き曇って、雷雨車軸を流すがごとく降り注いだと見てあれば、たちまちその瘤がふっつと裂けて、中から一匹の黒竜が雲を捲いて一文字に昇天したと云う話もござる。瘤の中・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木ほどになっていたのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面にぴたりとついたと思うと、罔竜の頭、絵ける鬼火のごとき一条の脈が、竜の口からむくりと湧いて、水を一文字に、射て疾く、船に近づくと斉しく、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・山を覆したように大畝が来たとばかりで、――跣足で一文字に引返したが、吐息もならず――寺の門を入ると、其処まで隙間もなく追縋った、灰汁を覆したような海は、自分の背から放れて去った。 引き息で飛着いた、本堂の戸を、力まかせにがたひしと開ける・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 戸外は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂った草が一筋に靡いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。 小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢。「お・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・というが、僕の荷物は背中に一文字でね。十七の年からもう二十年背負っているが、これで案外重荷でねと、冗談口の達者な男だった。十七の歳から……? と驚くと、僕も中学校へ三年まで行った男だが……と語りだしたのは、こうだった。 生まれつき肌が白・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・二、三分もすると急に飛び上がって一文字に投げるように隣家の屋根をすれすれに越して見えなくなってしまった。 私は毛虫にこういう強敵のある事は全く知らなかったので、この目前の出来事からかなり強い印象を受けた。そして今更のように自然界に行われ・・・ 寺田寅彦 「蜂が団子をこしらえる話」
出典:青空文庫