・・・「まず、満州へ行く感想といった題で一文いただけませんか」「誰が満州へ行くんだい?」「あなたが――。今日のうちの消息欄に出てましたよ」「どれどれ……」 と、記者の出した新聞を見て、「――なるほど、出てるね。エヘヘ……。・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・俺はYにも御馳走にはなったことはあるが、金は一文だって借りちゃいないんだからな……」 斯う云った彼の顔付は、今にも泣き出しそうであった。「だからね、そんな、君の考えてるようなもんではないってんだよ、世の中というものはね。もっと/\君・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ところが君はそうじゃない。一文も僕に返せないでも、三円という会費を調達して出席しようというのだ。君にそれだけの能力があるのなら、なぜ僕にそれだけでも返して、出席の方は断わるという気持になれないのかね? これはけっしてたんなる金銭の問題でない・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・五銭は昼めしになっているから一文も残らない。 さて文公はどこへ行く? ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえ・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・「最早一文なしだろう?」「一円ばかし有ります」「有ったってそれを渡したら宅で困って了う。可いよ、明日母上が来たら私がきっぱりお謝絶するから。そうそうは私達だって困らアね。それも今日母上や妹の露命をつなぐ為めとか何とか別に立派な費・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・の如くになり、法然の説く如くに、「一文不知の尼入道」となり、趙州の如くに「無」となるときにのみ、われわれは宇宙と一つに帰し、立命することができるのである。 五 知性か啓示か 今日この国の知識階級の前には知性か啓示かの・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・支那人は一回、銅片一文を取って馬に水を飲ませるのだ。水が凍らないように、長い棒でしょっちゅう水面をばしゃばしゃかきまぜ、叩いていた。白鬚まじりの鬚に氷柱をさがらした老人だった。 税関吏と、国境警戒兵は、そのころになると、毎年、一番骨が折・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 澄元契約に使者に行った細川の被官の薬師寺与一というのは、一文不通の者であったが、天性正直で、弟の与二とともに無双の勇者で、淀の城に住し、今までも度たびたび手柄を立てた者なので、細川一家では賞美していた男であった。澄元のあるところへ、澄・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・道は遠し懐中には一文も無し、足は斯の通り脚気で腫れて歩行も自由には出来かねる。情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・彼は、一エキュ以上する着物を着たことがない、一日に一文以上市場に払ったことがない、と自慢した。また、田舎にある自分の家は、外側に壁土をつけないものばかりだと、自慢した。また、伝うる所によれば、ホメロスは、唯一人しか下僕を持ったことがなかった・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫