・・・連夜の川施餓鬼は、善か悪か因縁があろうと、この辺では噂をするが、十年は一昔、二昔も前から七兵衛を知ってるものも別に仔細というほどのことを見出さない。本人も語らず、またかかる善根功徳、人が咎めるどころの沙汰ではない、もとより起居に念仏を唱える・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、褄は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ寸断の継填らしい。火鉢も無ければ、行火もなしに、霜の素膚は堪えられまい。 黒繻子の・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ お袋はいないし、おやじは僕を避けている。婆アやも狭い台どころへ行って見えない。 一昔も過ぎたかのように思われる国府津のことが一時に僕の胸に込みあがって来て、僕は無言の恨みをただ眼のにらみに集めたらしい。「あのこわい顔!」菊子は・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・大阪から例の瀬戸内通いの汽船に乗って春海波平らかな内海を航するのであるが、ほとんど一昔も前の事であるから、僕もその時の乗合の客がどんな人であったやら、船長がどんな男であったやら、茶菓を運ぶボーイの顔がどんなであったやら、そんなことは少しも憶・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・「そうさ、八年といえばやがて一昔だ。すこし長く居過ぎた気味はあるね」 と言われて、原は淋しそうに笑っていた。有体に言えば、原は金沢の方を辞めて了ったけれども、都会へ出て来て未だこれという目的が無い。この度の出京はそれとなく職業を捜す・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・けれども、相手が、一八七六年生れ、一昔まえの、しかも外国の大作家であるからこそ、私も甘えて、こんな試みを為したので、日本の現代の作家には、いくら何でも、決してゆるされる事ではありません。それに、この原作は、第二回に於いて、くわしく申して置き・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ ただ不思議に思われるのは、今でもあの単に道徳上の功利的価値だけを目標とした歴史画や、最もバナールな〔banal 陳腐な〕題材を最もバナールな技巧で表現したというだけの無遠慮に大きな田園風俗画などや、一昔前の臨画帖から取り出したような水彩画・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・の作者である井伏鱒二等が、やがて一昔の十年前は、この「新興芸術派」に参加していたことも、さまざまの意味で顧みられることだと思う。 二 満州事変は昭和六年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・それからもう一昔もそれよりも前の「上等記事論説文例」って云うのをよむ。「神功皇后韓ヲ征スル事ヲ論ズ」と云う一寸ばかりの短い論説だか何だか分らないようなのがあって、一番おしまいに道真左遷の事を論ズと云うのがあった。割合に下らないもんだった。そ・・・ 宮本百合子 「日記」
出典:青空文庫