・・・幸いに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。また……人の往来うさえほとんどない。 一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るように目に留った。 真白な顔が、揃ってこっちを向いたと・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・人形を桑の一木に立掛け、跪いて拝む。かくてやや離れたる処にて、口の手拭御新造様。そりゃ、約束の通り遣って下せえ。(足手を硬直し、突伸べ、ぐにゃぐにゃと真俯向けに草に俯夫人 ほんとうなの、爺さん。人形使 やあ、嘘にこんな真似が出来るも・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・千年の風雨も化力をくわうることができず、むろん人間の手もいらず、一木一草もおいたたぬ、ゴツゴツたる石の原を半里あまりあるいた。富士はほとんど雲におおわれて傾斜遠長きすそばかり見わたされる。目のさきからじきに山すそに連続した、三、四里もある草・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・今では堀田伯の住邸となってる本所の故宅の庭園は伊藤の全盛時代に椿岳が設計して金に飽かして作ったもので、一木一石が八兵衛兄弟の豪奢と才気の名残を留めておる。地震でドウなったか知らぬが大方今は散々に荒廃したろう。(八兵衛の事蹟については某の著わ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・かりに、これを借りることも、規律正しく使用するに於ては、ために一木一草を損うことなくすむであろう。 かゝる正義の行使は、今日の社会として、当然持たなければならぬ権利である。なぜならば、児童等は、両親のものなると共に、また社会のものである・・・ 小川未明 「児童の解放擁護」
・・・私は手を洗ってからも、しばらくそこに立って窓から庭を眺めていた。一木一草も変っていない。私は家の内外を、もっともっと見て廻りたかった。ひとめ見て置きたい所がたくさんたくさんあったのだ。けれどもそれは、いかにも図々しい事のようだから、そこの小・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・新進作家になってからは、一木一草、私にとって眼あたらしく思えるのだった。海岸をステッキ振り振り散歩すれば、海も、雲も、船も、なんだかひと癖ありげに見えて胸がおどるのだった。旅館へ帰り、原稿用紙にむかって、いたずらがきして居れば、おのれの文字・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・、とうの昔、よき音の鈴もちて曰くありげの青年巡礼、かたちだけでも清らに澄まして、まず、誰さん、某さん、おいとま乞いにお宅の庭さきに立ちて、ちりりんと鈴の音にさえわが千万無量のかなしみこめて、庭に茂れる一木一草、これが今生の見納め、断絶の思い・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・もしそうでなければ一木一草を描き、一事一物を記述するという事は不可能な事である。そしてその観察と分析とその結果の表現のしかたによってその作品の芸術としての価値が定まるのではあるまいか。 ある人は科学をもって現実に即したものと考え、芸術の・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・如何に精密なる参謀本部の地図でも一木一草の位置までも写したものはない。たとえ測量の際には正確に写したものでも、山の中の木こり径などは二、三年のうちにはどうなるかもしれない。そこまで地図をあてにするのはあてにする方が悪いのである。権威者の片言・・・ 寺田寅彦 「科学上における権威の価値と弊害」
出典:青空文庫