・・・無智愚昧の衆生に対する、海よりも深い憐憫の情はその青紺色の目の中にも一滴の涙さえ浮べさせたのである。こう言う大慈悲心を動かした如来はたちまち平生の神通力により、この年をとった除糞人をも弟子の数に加えようと決心した。 尼提の今度曲ったのも・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・もっとも今日は謹んで、酒は一滴も口にせず、妙に胸が閊えるのを、やっと冷麦を一つ平げて、往来の日足が消えた時分、まるで人目を忍ぶ落人のように、こっそり暖簾から外へ出ました。するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向き・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂に貯えられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。 自動車のいる所に来る・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 上へも、下へも、身動きが出来ない。一滴の露、水がなかった。 酒さえのまねば、そうもなるまい。故郷も家も、くるくると玉に廻って、生命の数珠が切れそうだった。が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があっ・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・たとえば貴重なる香水の薫の一滴の散るように、洗えば洗うほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言いようのない悪臭が蒸れ掛るように思われたので。……「ええ。」 ・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ この縁の突当りに、上敷を板に敷込んだ、後架があって、機械口の水も爽だったのに、その暗紛れに、教授が入った時は一滴の手水も出なかったので、小春に言うと、電話までもなく、帳場へ急いで、しばらくして、真鍮の水さしを持って来て言うのには、手水・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・星が夜々にその山の嶺を通るときに、一滴の露を落としてゆく。その露が千年、万年と、その盃の中にたたえられている。この清らかな水を飲むものは、けっして死なない。それは世にもまれな、すなわち不死の薬である。これをめしあがれば、けっして死ということ・・・ 小川未明 「不死の薬」
・・・そうなってもちょうをきれいだなどというのは、ただふらふらしている遊び人だけで百姓や、また草木をかわいがる人間は、そうはいわない。一滴からだについたら、死んでしまうような殺虫剤で、朝から晩まで、ちょうの後を追いまわしたものだ。おまえのお母さん・・・ 小川未明 「冬のちょう」
・・・おれの血の最後の一滴まで啜らせてやるぞ!」 と、呶鳴った。 もともと臆病な丹造は、支店長の顔を見るなりぶるぶるふるえていたが、鼻血を見るが早いか、あっと叫んで、小柄の一徳、相手の股をくぐるようにして、跣足のまま逃げてしまい、二日居所・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫