・・・――それが、まだ一番鶏も鳴かないのに、こっそり床をぬけ出して、酒臭い唇に、一切衆生皆成仏道の妙経を読誦しようとするのである。…… 阿闍梨は褊袗の襟を正して、専念に経を読んだ。 それが、どのくらいつづいたかわからない。が、暫くすると、・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・ 桜頃のある夜、お君さんはひとり机に向って、ほとんど一番鶏が啼く頃まで、桃色をしたレタア・ペエパアにせっせとペンを走らせ続けた。が、その書き上げた手紙の一枚が、机の下に落ちていた事は、朝になってカッフェへ出て行った後も、ついにお君さんに・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・ある時は、遠近の一番鶏が啼く頃になっても、まだ来ない。 そんな事が、何度か続いたある夜の事である。男は、屏風のような岩のかげに蹲りながら、待っている間のさびしさをまぎらせるつもりで、高らかに唄を歌った。沸き返る浪の音に消されるなと、いら・・・ 芥川竜之介 「貉」
・・・ お妻が、糸の切れたように、黙った。そうしてうつむいた。「――魔が魅すといいますから――」 一番鶏であろう……鶏の声が聞こえて、ぞっとした。――引手茶屋がはじめた鳥屋でないと、深更に聞く、鶏の声の嬉しいものでないことに、読者のお・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・その鍋を火山の火にかけて一晩おいた後に一番鶏が鳴いたら蓋をとってみようと思っている。 蓋を取ったら何が出るだろう。おそらく何も変った物は出ないだろう。始めに入れておいただけの物が煮爛れ煮固まっているに過ぎないだろうとしか思われない。しか・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・しかるに残酷なる病の神は、それさえも憎むと見えて、朝々一番鶏二番鶏とうたい出す彼の声は、夜もねられずに病牀に煩悶して居る予の頭をいよいよ攪乱するので、遂に四、五人の人夫の手をかけて、彼の鳥籠は病室の外から遠ざけられ、向うの庭の隅に移されてし・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・しかしとうとう一番鶏の鳴くころに願書ができた。 願書を書いているうちに、まつが寝入ったので、いちは小声で呼び起こして、床のわきに畳んであったふだん着に着かえさせた。そして自分もしたくをした。 女房と初五郎とは知らずに寝ていたが、長太・・・ 森鴎外 「最後の一句」
出典:青空文庫