・・・それが書く気になったのは、江口や江口の作品が僕等の仲間に比べると、一番歪んで見られているような気がしたからだ。こんな慌しい書き方をした文章でも、江口を正当に価値づける一助になれば、望外の仕合せだと思っている。・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・「お前も一番乗って儲かれや」とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をして唾をはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと気疎い草鞋の音を立てて、往来を通る者がたまさ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一番恐ろしかった事を忘れたのを、思い出さなくてはならないような心持がする。 どうも自分はある物を遺却している。それがある極まった事件なので、それが分かれば、万事が分かるのである。・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩形を持ってるということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ されば僕の作で世の中に出た一番最初のものは「冠弥左衛門」で、この次に探偵小説の「活人形」というのがあり、「聾の一心」というのがある。「聾の一心」は博文館の「春夏秋冬」という四季に一冊の冬に出た。そうしてその次に「鐘声夜半録」となり、「・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。昔から何ほど暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとの話だ。家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見別けがつかぬ位・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・大石軍曹などは一番ええ、一番えらい方の気違いや。」「うちの人もどっちかの気違いどす」と、細君は再び銚子を変えに出て来て、直ぐ行ってしまった。 友人はその跡を見送って、「あいつの云う通り、僕は厭世気違いやも知れんけど、僕のは女房の・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・随って手洗い所が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め深川の不動や神田の明神や柳島の妙見や、その頃流行った諸方の神仏の手洗い所へ矢車の家紋と馬喰町軽焼淡島屋の名を染め抜いた手拭を納めた。納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、外の人が評してもま・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・そして女房のするように、一番はずれの白樺の幹に並んで、相手と向き合って立った。 周囲の草原はひっそりと眠っている。停車場から鐸の音が、ぴんぱんぴんぱんというように遠く聞える。丁度時計のセコンドのようである。セコンドや時間がどうなろうと、・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
出典:青空文庫