・・・人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。罪や、かなしみでさえそこでは聖くきれいにかがやいている。深い椈の森や、風や影、肉之草や、不思議な都会、ベーリング市まで続・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・ 私のロシア語は、一瞬にいくつもの文字を視神経で捕え得るほど、まだ発達してはいないのである。私の日本からの道伴れは、彼女の肩をふってビラの前へ戻って行った。「本当に――そうだ」「何処?――大劇場……芸術座じゃあないのね、どうして・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・その方面に関心をもっている人々は、明らかに自分たちの今日から明日への現実的な生き方を念頭において研究をも試みているのであり、日本の女性史の一瞬にパッと閃いて、やがてより濃い闇に埋められた「青鞜時代」のロマンティックな女性史への興味とは、おの・・・ 宮本百合子 「先駆的な古典として」
・・・折々鋭い稲妻の閃光が暗い闇を劈いて一瞬の間、周囲を青白い輝きの中に包みはしても、光りの消えたと同時に、またその暗い闇がすべてを領してしまう。 それと同様に、ときどきは、いかほど熾んな感激の焔に照らされはしても、彼女の生活の元来は暗かった・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・が、事実は秋三や母のお霜がしたように、病人の乞食を食客に置く間の様々な不愉快さと、経費とを一瞬の間に計算した。 お霜は麦粉に茶を混ぜて安次に出した。「飯はちょっともないのやわ、こんなもんでも好けりゃ食べやいせ。」「そうかな、大き・・・ 横光利一 「南北」
・・・この梶の一瞬の感情には、喜怒哀楽のすべてが籠っていたようだった。便便として為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方の世界に刃向う敵意や、殺人機の製造を目撃する淋しさや、勝利への予想に興奮する疲労や、――いや、見ないに越したことはない・・・ 横光利一 「微笑」
・・・それは鈍った鉛の切断面のようにきらりと一瞬生活の悲しさが光るのだ。だが、忽ち彼はにやりと笑って歩き出した。彼は空壜の積った倉庫の間を通って帰って来るとそのまま布団の中へもぐり込んで円くなった。 彼は雑誌を三冊売れば十銭の金になることを知・・・ 横光利一 「街の底」
・・・やがて時が迫って来て彼女の特有な心持ちにはいると、突如全身の情熱を一瞬に集めて恐ろしい破裂となり、熱し輝き煙りつつあるラヴァのごとくに観客の官能を焼きつくす。その感動の烈しさは劇場あって以来かつてない事である。この瞬間には彼女は自己というも・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・しかしその深淵のすみからすみまで行きわたっているある大いなる力と智慧との存在する事を、そうしてその力と智慧とが敏感な心に一瞬の光を投げることを否むわけに行かない。我々は不断に我々の生活の上にかかっている運命に対してこの一瞬間のために、敬虔な・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
・・・先生にとっては、最も重大なことはただ黙々の内に、瞳と瞳との一瞬の交叉の内に通ぜらるべきであった。従って先生は対話の場合かなり無遠慮に露骨に突っ込んで来るにかかわらず、問題が自分なり相手なりの深みに触れて来ると、すぐに言葉を転じてしまう。そう・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫