・・・ 昆布岳の一角には夕方になるとまた一叢の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。 仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻の下ににじんだ汗を袖口で拭って・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・日本一の大原野の一角、木立の中の家疎に、幅広き街路に草生えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚でゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおいなる田舎町・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ と、何かさも不平に堪えず、向腹を立てたように言いながら、大出刃の尖で、繊維を掬って、一角のごとく、薄くねっとりと肉を剥がすのが、――遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯の影にひくひくと動く。 その紫がかった黒いのを、・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・右手な神社のまた右手の一角にまっ黒い大石が乱立して湖水へつきいで、そのうえにちょっとした宿屋がある。まえはわずかに人の通うばかりにせまい。そこに着物などほしかけて女がひとり洗濯をやっていた。これが予のいまおる宿である。そして予はいま上代的紅・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・緑雨の通人的観察もまたしばしば人生の一角に触れているので、シミッ垂れな貧乏臭いプロの論客が鼻を衝く今日緑雨のような小唄で人生を論ずるものも一人ぐらいはあってもイイような気がする。が、こう世の中が世智辛くなっては緑雨のような人物はモウ出まいと・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・真に少数なる読書階級の一角が政治論に触るゝ外は一般社会は総ての思想と全く没交渉であって、学術文芸の如きは遊戯としての外は所謂聡明なる識者にすら顧みられなかった。 二十五年前には文学士春の屋朧の名が重きをなしていても、世間は驚異の目をって・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・ 淡路島の一角に建てられた燈台の白い光りが、長く波の上に映っている。船の通るたびに、其の白い光りは見えなくなる。『あれ、また船が通ります』と、女は、やはり海の方を見ていて言った。 欄に寄って、遠く、汽船の青い火の、淋しい、闇に消・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・ 新聞に出ている武田さんの写真は、しかしきっとして天の一角を睨んでいた。 織田作之助 「四月馬鹿」
今もそのアパートはあるだろうか、濡雑巾のようにごちゃごちゃした場末の一角に、それはまるで古綿を千切って捨てたも同然の薄汚れた姿を無気力に曝していた。そのあたりは埋立地のせいか年中じめじめした湿気が去らなかった。日の射さぬ中・・・ 織田作之助 「道」
・・・ しかし、上ノ宮中学の前を過ぎると、やっと家並が続いて、この一角は不思議に焼け残ったらしい。 この分なら、これから頼って行く細工谷町の友人の家は、無事に残っているかも知れないと、思いながら四ツ辻まで来た時、小沢はどきんとした。 ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
出典:青空文庫