・・・その方は一足先へ参れ。身どもは宿まで取って返そう。」――彼はこう云い放って、一人旅籠へ引き返した。喜三郎は甚太夫の覚悟に感服しながら、云われた通り自分だけ敵打の場所へ急いだ。 が、ほどなく甚太夫も、祥光院の門前に待っていた喜三郎と一しょ・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ そういって彼れは笏を上げて青年たちに一足先きに行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着とをずたずたに破りすてた。 次の瞬間にクララは錠のお・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠の蝶の舞うばかり、目に遮るものは、臼も、桶も、皆これ青貝摺の器に斉い。 一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯と揺れ、溌と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀黄金・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 村のものらもかれこれいうと聞いてるので、二人揃うてゆくも人前恥かしく、急いで村を通抜けようとの考えから、僕は一足先になって出掛ける。村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子のくるのを待った。ここから見おろすと少しの田圃がある。色よ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 一二 もう、ゆう飯時だからと思って、僕は家を出で、井筒屋のかど口からちょっと吉弥の両親に声をかけておいて、一足さきへうなぎ屋へ行った。うなぎ屋は筋向うで、時々行ったこともあるし、またそこのかみさんがお世辞者だから、・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いつも女房の方が一足先に立って行く。多分そのせいで、女学生の方が何か言ったり、問うて見たりしたいのを堪えているかと思われる。 遠くに見えていた白樺の白けた森が、次第にゆるゆると近づいて来る。手入をせられた事のない、銀鼠色の小さい木の幹が・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 悲壮な気持ちで、門を入ろうとすると、内部からがやがや人声がきこえました。 一足前、近所の人たちが、倒れている老人を連れてきたのです。 B医師は、すぐに老人に注射を打ちました。「気がついた。おじいさん泣かんでいい。ここは医者・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・ 私が階子の踏子に一足降りかけた時、ちょうど下から焚落しの入った十能を持って女が上ってきた。二十七八の色の青い小作りの中年増で、髪を櫛巻にしている。昨夜私の隣に寝ていた夫婦者の女房だ。私の顔を見ると、「お早う。」と愛相よく挨拶しながら、・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 私は女より一足先に宿に帰り、湯殿へ行った。すると、いつの間に帰っていたのか、隣室の男がさきに湯殿にはいっていた。 ごろりとタイルの上に仰向けに寝そべっていたが、私の顔を見ると、やあ、と妙に威勢のある声とともに立ち上った。 そし・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・姉夫婦は義兄の知合いの家へ一晩泊って、博覧会を見物して帰るつもりで私たちより一足さきに出かけた。私たちは時間に俥で牛込の家を出た。暑い日であった。メリンスの風呂敷包みの骨壺入りの箱を膝に載せて弟の俥は先きに立った。留守は弟の細君と、私の十四・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
出典:青空文庫