・・・憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視めし眼よりは冷ややかなる涙、両の頬をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』と叫びて跳ね起きたり。水車場の翁はほぼかれが上を知れるなり。・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・風雨一過するごとに電燈の消えてしまう今の世に旧時代の行燈とランプとは、家に必須の具たることをわたしはここに一言して置こう。 わたしは何故百枚ほどの草稿を棄ててしまったかというに、それはいよいよ本題に進入るに当って、まず作中の主人公となす・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・シカシテ風雨一過香雲地ニ委ヌレバ十里ノ長堤寂トシテ人ナキナリ。知ラズ我ガ上ノ勝ハ桜花ニ非ズシテ実ニ緑陰幽草ノ侯ニアルヲ。モシソレ薫風南ヨリ来ツテ水波紋ヲ生ジ、新樹空ニ連ツテ風露香ヲ送ル。渡頭人稀ニ白鷺雙々、舟ヲ掠メテ飛ビ、楼外花尽キ、黄悄々・・・ 永井荷風 「向嶋」
出典:青空文庫